言語道断(ごんごどうだん)
→ 言い尽くせない真理や道理、とんでもないこと。
言語道断という言葉を聞くと、とある時代劇を想い出す。
暴れん坊将軍と水戸黄門だ。
私の育った家庭は、なぜが時代劇を晩ごはんのときに見ていた。
他の家庭ではバラエティ番組を見ていたのが主流で、同級生たちの話についていけないところも多かったように記憶している。
そんな時代劇の悪者を懲らしめる最期のシーンで、この言語道断という言葉が頻繁に登場していたと思う。
今さら聞けない時代劇ってなぁに?
といっても、そもそも時代劇を知らないという人も多いようだ。
確かに現在はテレビを見るという人も減り、ワンパターンの時代劇を見るほど時間がないというか、そもそもコンテンツが溢れている時代に時代劇を選択する物好きも少ないということだ。
一時期は高齢者の視聴率を狙ってか、時代劇のテレビ放映も多かったように思うが、専門チャンネルの方に移行している傾向にある。
ということで、そもそも時代劇とはどんなものなのか、簡単に説明しよう。
時代劇とは、明治時代より前に題材を取った劇のことをいうのだが、江戸時代を題材にしたものだという認識でいいだろう。
ご存知のとおり、江戸時代は徳川幕府が政権を約260年間という長い期間、握っていた時代だ。
いつの時代もそうだが、悪者はいる。
そんな悪者を幕府側の権力者たちが一般人に紛れ込んで悪事を暴いて懲らしめるというパターンが時代劇の王道だ。
上述した、暴れん坊将軍の場合は徳川8代将軍の徳川吉宗が主人公、水戸黄門の場合は権中納言である水戸藩主の徳川光圀が主人公となっている。
暴れん坊将軍という時代劇
徳川幕府の第8代将軍の徳川吉宗が、町火消のめ組に居候する貧乏旗本の三男坊、徳田新之助という設定で江戸の町を治安を守るという設定だ。
幕府側のそこそこの地位のある役人と商人が悪巧みを考えているところを、め組の頭である辰五郎たちと連携して暴いていくといったストーリーが鉄板だ。
はっきり言って、このワンパターンで今思えば大体どのタイミングでなにが起こるかもパターンが決まっているのは明確だ。
子どもながらに時代劇の良さというか、なにが飽きさせなかったのかを考えたときに、爽快感が挙げられると思う。
最期の徳川吉宗を演じている松平健の剣さばきというか太刀筋は本当にキレイだった。
個人的に、松平健の暴れん坊将軍のときの太刀筋以上にキレイな動きを見たことがないし、是非一度見て欲しいと思う。
最期の悪者を懲らしめるシーンでは葵の御紋が入った刀をカチャっと切り替えるシーンがあるのだが、幼心にその理由がわからなかった。
母親にその理由を聞いたことを今でも覚えているが、峰打ちをするためだという。
峰打ちとは刀の刃の方で切るのではなく、峰の部分、つまり背の部分で打撃を加えることだ。
要するに、殺さず打撃だけ与える目的で行うのだが、捕らえた後に裁きを受けるという、まあ今でいう裁判をするという流れを組んだものだ。
この峰打ちにするシーンから約5分くらいだろうか。
松平健が扮する徳川吉宗のシーンはとにかく爽快感を味あわせてくれる。
また、やはり悪事は働いてはいけない、悪者は滅びて正義が勝つというベタな演出に共感してしまうのだろう。
後に、私が見ていた暴れん坊将軍のシリーズのめ組の辰五郎が北島三郎であることも知るのだが、私にとって北島三郎が歌手のイメージが全くないのはそのせいだ。
水戸黄門という時代劇
暴れん坊将軍よりも水戸黄門の方がメジャーな時代劇だろう。
というのも、シリーズが長く放映されていて、主人公である水戸光圀や右腕、左腕である助さん格さんに抜擢された役者もかなりの数の入れ替わりがある。
ただ、こちらも暴れん坊将軍と同様に展開はワンパターンだ。
水戸黄門の主人公である、水戸光圀は徳川御三家の一角である水戸藩主だ。
水戸黄門を見たことがある人は知っていると思うが、最期の印籠を出すシーンで、天下の副将軍と紹介される。
これは、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに江戸に常駐する定府が義務付けられていたこと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことから呼ばれるようになったとされる。
要するに、かなりの権力があったということなのだが、水戸黄門は徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直しを描いた時代劇なのである。
日本全国、津々浦々を助さん格さんたちを率いて悪者たちを懲らしめていくのだが、なぜシリーズが長く続いたのかを考えてみよう。
その理由として、まずは暴れん坊将軍と同様に悪を懲らしめるという爽快感が挙げられるだろう。
そこに、日本全国、津々浦々をというところが加わっていることがポイントだと思っている。
時代劇の視聴者層は明らかに年配の人たちだ。
そんな日本全国にいる年配の人たちが自分たちの地元での話となると、親近感が湧くという効果も重要な要素だと考えている。
また、登場人物に特徴がある人たちも多く、由美かおるの入浴シーンを始め、様々なキャラクターが話に色をつけてくれるというのも人気の秘密だろう。
時代劇から学べること
そんな時代劇から、冒頭のテーマである言語道断という言葉を何度も聞いたことを記憶している。
最期のシーンでよく登場する定番の言い回しが、狼藉を働くとは言語道断といったところだが、時代劇という劇を通じて見ているので言語道断という意味のニュアンスは子どもでもしっかりと伝わる。
この言語道断という言葉が未だに私の記憶を呼び起こすことが、なによりのエビデンスだろう。
それよりも重要なことを発見している。
それは、コンテンツとしてとても優れているということだ。
現代ではNetflixやAmazon Primeといった様々な動画配信サービスが定着したこともあって、アジアを中心に韓流ドラマが人気コンテンツとなっている。
この韓流ドラマは韓国が国をあげて超優良コンテンツに落とし込んでいったもので、作品自体が面白いというよりもパッケージ化されていることが重要なのである。
なにが言いたいのかというと、第何話でなにをするとか、その1話の中の何分何秒のところでなにをするといったシーンが決められているというのである。
それはデータから緻密に分析されたもので、王道のパターンがあるからこそヒットするというわけだ。
この話をここ数年で聞いたときに、時代劇に通ずるものがあるとピンときたのである。
私が子どものころに、すでに完全にパッケージ化されたコンテンツが時代劇なのだ。
暴れん坊将軍、水戸黄門といった具合いにタイトルは違えど、1話1話のストーリーは基本ワンパターンだ。
それにも関わらず、多くの人が飽きずに見続けるということは、人の心を惹きつけるものがあったというなによりの証拠になる。
もちろん、当時はコンテンツも限られていたため、見るものがなかったという側面があることも否定できないと思う。
けれども、そのあたりを差し引いたとしても、中毒症状のように継続して見る人がいるという事実は、現代のマーケティングやブランディングに通ずるものがあると思うのである。
まとめ
子どものころにした経験が強烈に脳裏に焼き付いているということは、誰にもあることだろう。
そのインパクトを与えることが意図的にできるのであれば、それこそマーケティングやブランディングにとっては強力な武器になる。
それは時代劇に限った話ではないと思うが、一見、アナログだと思える部分にもヒントがあるように感じている。
テクノロジーに頼ることも重要なことはわかっているのだが、人は感情があるという最も厄介な部分が常に付きまとう。
そうそう、時代劇のことを書いているうちに、他にも大岡越前という時代劇もあったことを思い出した。
韓流ドラマが全盛を極めているが、多くのパターンがあるように魅せる方法が時代劇にも備われば、世界進出できるコンテンツになり得るポテンシャルがあるようにも思う。
可処分時間の奪い合いが熾烈を極めている時代に、ちょっとしたスパイスをこういった目線から入れてみるのも面白いはずだ。
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