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2022年11月5日 投稿:ueda

今まさに苦境にいる人たちに告ぐ

枯木竜吟(こぼくりょうぎん)
→ 苦境を脱して再び脚光を浴びることのたとえ。

苦境だと感じたことがあるという回答は珍しいことではない。

人それぞれ苦境だと感じるところは違うし、そこに大きい小さいとか深い浅いといったことを考えること事態が不毛なのだが、苦境は必ず訪れる。

それは、今まさに苦境にいる人もいるだろうが、絶好調だと思っている人にもふとした瞬間に苦境に転ずることがあるということだ。

そこでどうやって次に向かうのか、今まさに苦境にいる人たちに告ぐ。

あたなの理想はどういったものなのか?

苦境にいるということは、少なからず自分の目標とする理想があるということになる。

その理想もまた人それぞれだと思うが、そもそも理想を掲げることができている時点で素晴らしいことだということに気づこうではないか。

というのも、多くの人はなにも考えずにただただ時間が過ぎ去っていく人生を過ごしている。

そして、そのほとんどがそのことにすら気がついていないのが現状なので、理想を掲げることができている人はその時点で、マイノリティなのである。

マイノリティである以上、大衆とは違う試練が訪れてしまうのは仕方がない。

でも、ここで重要なのはその試練を苦境と感じたとしても、乗り越えられる人にしか訪れることがないということを理解すべきなのである。

試練は何度も訪れるもので、その都度、乗り越えられるかどうかを試されていると思えばいい。

それから、その試練は必ず乗り越えていけるのが理想を掲げている側にいる人たちだ。

イノベーションはいつも理想を掲げる人がいて、その人の熱量によって起こるものなのである。

挑戦とはどういったものなのか?

理想を現実にしていくためには挑戦すること、挑戦し続けることがマストになる。

挑戦という言葉を聞くと、漢字に憧れた外国人がチャレンジという意味だと思って、朝鮮という漢字のタトゥーを入れたというアメリカンジョークを思い出す。

まあ、個人的はそんなどうでもいい話は置いておいて、挑戦しなければ傷つくことなどない。

つまり、苦境に陥ることもないということなのだが、大切なことは脚光を浴びることもないということだ。

なにもしなければ傷つくこともなければ、栄光を掴むこともなく、平坦な人生を送ることができる。

当然だが、そういった人生がいいという人もいると思うので、本気でそう思っている人に対してはなにも言うつもりはない。

けれども、この文章を読み進めてくれているという人は、そういった人生を望んでいない人だろう。

だから、そういう人に向けて続けて書くことにするが、挑戦しない人生はつまらない。

挑戦することができることは、実は幸せなことだということを声を大にして伝えたい。

挑戦に失敗はつきものだ。

でも、挑戦し続けることで自分が納得できる成功を手に入れることができる瞬間がある。

その瞬間に味わうことのできる達成感というか高揚感はなにものにも変え難く、言語化するのが難しいのだが、とにかくこの達成感は味わったことにしかない人にしかわからない。

そして、これだけは言い切れるが、この達成感、高揚感に勝るものは世の中にないだろう。

挑戦し続けた人にしか味わうことのできない絶対的な特権なのである。

それはお金でもなく、モノでもなく、ただただ自分自身が感じる最高のエクスタシーなのだ。

脚光とはどういったものなのか?

挑戦し続けた先にある達成感、高揚感という最高のエクスタシーがある一方で、脚光という言葉がある。

この違いは挑戦とは自分自身と向き合うものであるのに対して、脚光とはあくまで第三者目線だということだろう。

言ってみれば、勝手に評価されるものが脚光というもので、それは自分自身が主役となっていない。

脚光という言葉と密接にあるのは、浴びるという言葉だろう。

一見、自分が中心になっているように思える表現だが主体が異なり、周りからスポットライトが当たるイメージをしてもらえたらわかりやすいかもしれない。

つまり、脚光を浴び続けるということは、ある意味で周りの目線に合わせているということなのかもしれない。

本当に自分のしたいことをしていないかもしれないということで、承認欲求が先行している可能性があるということだ。

もちろん、承認欲求があるということは悪いことではない。

誰にでも誰かに認められたいという承認欲求は少しはあるものだろう。

ただ、過度に承認欲求が先行してしまうと、本来のあるべき姿を見失ってしまう可能性が高くなるので要注意だ。

走り続けていることには変わりないので、はたから見ると挑戦している姿に見えるかもしれないが、質が異なってくる。

どこを目指すのかによっても変わってくるし、承認欲求を満たすことを大前提にする人生も悪くはないだろう。

けれども、いざ振り返ったときに周りに振り回されただけで終わっていたといった経験がある人は、その道を進むべきではない。

脚光を浴びる人生よりも挑戦をし続ける人生を送る側にいることをオススメする。

やりたいことをやるための犠牲

これもよく私が主張していることの1つなので、改めて書かせてもらうが、やりたいことではないのでやらないという発言をする人がいる。

その選択肢が正しいのか間違っているのかは、神のみぞ知るといったところだが、私はこの考え方には賛同できない。

というのも、本当にやりたいことがあれば、その何倍も、何十倍も、何百倍もやりたくないことをやらないといけないということを知っているからである。

その先にようやく自分のやりたいことができるようになるという感覚で、その犠牲が払えないようであれば、そもそもやりたいことではないということだ。

そして、あえてわかりやすいように犠牲というネガティブな言葉で表現しているが、そもそもやりたいことに向かって全力で進んでいるときには、犠牲を払っているという感覚がない。

それだけ集中しているということもあるが、そもそも犠牲とか努力といった一般的にウケるような言葉が当てはまらないということだ。

外野から見たら犠牲とが努力に映るのかもしれないが、当の本にはそんなことを意識しておらず、ただただ必死にやっているだけだったりする。

その姿に勝手に尾びれ背びれがついていくようなイメージだ。

私自身もしばしば経験があるのだが、全く意図していなかったことに対しても、あれはこういう意図があってつけたネーミングですよねといったことを言われることがある。

そんなこと考えたこともなかったりするのだが、確かにそういう見方もできるなと思ったときには、勝手にその意見を拝借することだってある。

そうです、実はそういうことなんですとあたかも最初から狙っていたかのように振る舞うこともあるのだが、ここまでくれば一丁上がりといったところだ。

勝手に第三者がストーリーを考えてくれるほど楽なことはない。

その領域までたどり着けたときのご褒美のようなものだと私は思っている。

そこにたどり着くまでに多くの犠牲を払い、誰よりも地道な努力をしてきたのだから、それくらいは許されてもいいだろう。

まとめ

今まさに苦境にいるという人たちへ告ぐ。

その苦境はあなたがした最高の選択に対する結論で、その苦境はあなたであれば絶対に乗り越えることができる。

だから、なにも心配することなく自分の信じた道を突き進めばいい。

その先に達成感、高揚感を味わえる瞬間が訪れると思うしかないという他人行儀な言い回しをさせてもらうが、その達成感、高揚感のサイズをどんどんアップデートして欲しい。

高みを目指すことは決して悪いことではないし、高みを目指そうと志を高く持った人が成功者として君臨することは誉れでしかない。

そして、そういう立場を経験した人でなければ、言葉に重みもなければ説得力もない。

今まさに苦境にいるという人たちへ告ぐ。

その苦境はどこかで逆転する。

そのとき、勝手に第三者があなたに脚光を浴びせるだろう。

その瞬間が訪れるまで、挑戦をし続けることだ。

 

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植田 振一郎 Twitter

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