極楽浄土(ごくらくじょうど)
→ 阿弥陀仏がいる、苦難や苦悩のない安楽な世界。
ついこの前、少々興味深い話を聞いた。
それは、年配の人たちが極楽という言葉を使わなくなっているという話だ。
それに置き換わっている言葉が天国だというのだが、そもそもその違いはなんなのだろうか。
正直、あまり興味のない分野ではあるのだが、せっかくなので調べてみることにした。
今さら聞けない極楽ってなぁに?
まず、極楽には2つの意味があるそうだ。
1つは、仏教の言葉で阿弥陀仏の浄土のことをいい、浄土とは、果てしなく広く大きく満足することができ、一切の苦労がない世界だといわれている。
他にも、極楽浄土とか極楽界などという言い方もある。
そして、もう1つの意味は、心身の苦痛や生活の苦労も心配もない状態や境遇、またはそういった場所のことを意味している。
昨今はあまりイメージをすることも少なくなったかもしれないが、温泉に浸かっている様子が例としてわかりやすいだろう。
温泉に浸かってリラックスしているときに「極楽、極楽」と発している人がまさにそのイメージというわけだ。
人は様々な悩みを少なからず抱えて生きているものだが、温泉に入っているときは心身の苦痛から離れることができている状態を指しているわけだ。
極楽の湯といった名前がつけられている温泉施設が多いのもそこからきているのである。
くり返しになるが、極楽という言葉が使われる場面は、仏教の用語として使用されることもあるが、苦痛や心配事のない状態や境遇、またはそういった場所を指すときということになる。
今さら聞けない天国ってなぁに?
一方で、天国とはなにを指しているのだろうか。
実は天国も極楽と同様に2つの意味があるという。
1つは、神や天使がいるとされる天上の世界で、死後に行くとされている場所だ。
天国には、なんでも必要なものが揃っていて、望めば必要なものを手にすることができ、美しい音が流れており、美しい色彩で溢れているといわれている。
それから、もう1つの意味は、 天国で暮らす者にとって、それ以上望むもののない完全な世界、なにも心配することのない快適な環境を指している。
その人が好きな環境で暮らせることが快適だという概念で、植物が好きなら植物で溢れている世界、食べ物が好きなら食べ物で溢れている世界といった具合いだ。
つまり、死後の天上の世界を指して使われることが多いが、心配することがなく、快適な環境のことも天国と表現するというわけだ。
極楽と天国の違い
抽象的な概念を述べてきたが、極楽と天国がどのように違うのか、もう少し詳しく書いていこう。
まず、極楽と天国に共通していえることは、どちらの言葉も苦痛や心配のない状態やそういった場所という意味を持っているということだ。
そして、極楽は仏教で使われる言葉という意味もあり、天国は神や天使がいるとされる天上の死後の世界という意味もある。
極楽は、阿弥陀仏が開いた仏教の世界に使われる言葉だとされている。
極楽という場所は、幸福のあるところという意味で、全てを救ってくれる場所という意味として教えられている。
また、天国とは、キリスト教の聖書の中に出てくる言葉でもある。
キリスト教の中で天国という場所は、神様から永遠に祝福を受ける場所とされている。
天国には、死もなく、悲しみもなく、苦しみもないので、怒りや痛みによる叫びもないのが天国というところだというわけだ。
それから、こちらも似たようなニュアンスになるが、極楽も天国も、死後にこの世の苦しみや悲しみから解放されて幸せに過ごせる場所というのは同じだ。
とはいえ、極楽は誰でも行けるチャンスがあるのに対して、天国に行ける人は限られているという解釈をせざるを得ないことは注視しておきたい。
というのも、天国の入口は、誰にでも門が開かれるわけではなく、天国に行けるのは、神様の存在を信じ、キリスト教を信仰した人に限られているという点があるということだ。
生きている間に、キリスト教を信仰していなかった人が、あの世で天国に向かっても、入口は開かないとされている。
一方で、極楽は、生きとし生けるもの全てを受け入れるというスタンスだ。
救いを求める人は誰でも、極楽に行けるチャンスが与えられるというわけだ。
ただし、悪人が悪人のまま極楽に行けるわけではなく、悪人でも許されるチャンスを与えられるという解釈だという点には留意したい。
天国という言葉に連動する地獄とは?
天国という言葉が出てきたのであれば、対になっているといってもいい地獄とはどういった概念なのだろうか。
なんとなくイメージができるという人がほとんどだとは思うが、言語化するとなると意外と難しいのではないだろうか。
実はキリスト教や仏教に限った話ではなく、死後の世界では地獄はほぼ共通している。
天国や極楽のように、幸せに満ちたところに行けなかった死者の世界だという概念だ。
罰を受ける場所というイメージで描かれることが多く、それは現世での行いによって責められるという共通した世界が地獄なのである。
なぜ極楽という言葉が使われなくなっているのか?
それでは、冒頭に書いた極楽という言葉が使われなくなっている理由はなんなのか。
葬儀に行くと、故人の親族や友人がお別れの言葉を読む機会に遭遇することがあるだろう。
そのときに、一般的になっているのは、天国で幸せに暮らしてくださいといったニュアンスの言葉だったりする。
その理由は、諸説あるのだが、一昔前ほど信仰心というものがなくなってきており、そのあたりを含めてメディアでの取り上げ方も葬儀と同様に天国という言葉を使うことが増えたからだといわれている。
少々荒いまとめ方かもしれないが、悪意なくメディアによって極楽から天国という言葉にオーバーライドされたというか、変えられたといったところだろう。
そこには、欧米の文化がどんどん入ってきたことによる影響だと指摘する人たちもいる。
食生活に欧米の文化が自然と溶け込んでいったように、宗教の世界にも垣根を超えたラフな概念が入ってきたというわけだ。
とはいえ、信仰心の強い人からすると、このあたりは明確にしたいという人が一定数いるということは理解しておいた方がいい。
例えば、基本的な概念は似ているけれども、決定的に違うという主張の1つを挙げておこう。
浄土と天国には大きな違いがあり、それは浄土とは場所の名であるばかりではなく、はたらきを表す言葉だということだ。
真宗門徒であるならば、死んだらお浄土へ還るが正しい表現の仕方となり、こういった教えを語り継いでいくというはたらきが加わるということらしい。
申し訳ないが、無宗教者、無神教者、無神論者の全てが当てはまる私にとっては理解のできない概念ではあるが、そういった人たちがいることは理解している。
まとめ
温泉に浸かることはなくても、お風呂に浸かったときに極楽、極楽という人は確かに限りなく少数になったと思う。
なんの前触れもなくというか、言葉は自然に変化していくというのが一般的だ。
流行語大賞の発表が毎年あるように、新たな言葉が生まれてはまた消えていく。
まあ、明らかにバズを狙った言葉もたくさん登場してはいるわけだが、それもまた時代の流れだろう。
いずれにせよ、私の死後がどうなるかなど知ったことではないが、キリスト教の信者ではないので天国に行けることはないらしい。
となると、極楽浄土か地獄のどちらかに必然的に行くことになるのだろうが、そんなことを考えてなにになるのだろうか。
そんなことよりも、今を必死に生きることの方が重要だということを改めて主張しておきたい。
それができていない人は変な正義感や宗教観のようなものを無駄に押し付けようとしてくるので、できるだけ遠ざけて生きていくべきだと私は思っている。
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