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2022年10月12日 投稿:ueda

悪という概念を善という概念に変えてみる

克伐怨欲(こくばつえんよく)
→ むやみに勝ちたがる、自ら誇る、怨む、むさぼるという4つの悪のこと。

悪を表現する四字熟語は多い。

感覚でしかないのだが、四字熟語をテーマとして毎日ブログを書き続けているわけだが、善を表現する四字熟語よりも悪を表現する四字熟語の方が圧倒的に多いと感じている。

そんなことはないのかもしれないが、善悪を表現する四字熟語がどっちが多いかなどどうでもいい。

少なくとも私が悪を表現した四字熟語の方が多いと感じている事実があることが重要だ。

その理由がわからなくはない。

善を教訓とするよりも、悪を教訓とした方が後世に語り継ぐ上で都合がいいからである。

四字熟語も教訓を未来に残すために生まれているという側面が少なからずあるだろう。

となると、善悪を比較する際に悪をよりネガティブに見せた方が善が活きるから悪を強調する、悪のパターンを増やすということを手法として残すわけだ。

わかりやすくいうと、昔話がこのパターンを取っていることが多い。

悪いおじいさんと善のおじいさんの2人が出てきて、結局、善のおじいさんが幸せになるというパターンの昔話が多い。

ただ、悪いおじいさんは本当に悪いのか、気になる昔話も多い。

時代が変われば悪が善に変わることがあるということは、何度が述べているが、今回のテーマになっている4つの悪も本当に悪なのか疑問が残るものばかりだというのが、個人的な見解だ。

克伐怨欲の4つの悪について考える

そもそも、克伐怨欲(こくばつえんよく)という四字熟語を知っていたという人はごく少数だろう。

それくらい浸透していない四字熟語を真剣に語るのもナンセンスだと思うが、少なからずこの四字熟語を残そうと試みた人がいるわけで、ではその気持ちに呼応してみようというわけだ。

上述したとおり、克伐怨欲という四字熟語の意味は、次の4つの悪を意味するらしい。

  1. むやみに勝ちたがる
  2. 自ら誇る
  3. 怨む
  4. むさぼる

この4つが本当に悪なのか、私には善にしか思えない。

それでは1つずつ悪だということに関して、なぜ善だと思うのか、自分なりの意見を書いていこう。

むやみに勝ちたがること

なぜむやみに勝ちたがることが悪なのだろうか。

なんとなく言いたいことはわかるのだが、なりふり構わず勝ちにいくような姿勢を否定しているのだろう。

でも、それは本当に悪なのだろうか。

これを悪だと言い切っている人は、正直本気でなにかに取り組んだことがない人だと思うのだ。

意地でも勝とうとするマインドが、なぜ悪なのだろうか。

むやみに勝とうとする人がいたとしたら、その人は仲間にしたくないと思う人が大多数なのかもしれないが、私には理解できない。

そういう人はむしろ仲間にしたいと思う。

大前提として、明らかな犯罪に手を出したり、傷つけることしかできないようなタイプは論外だ。

ただ、なんとかして結果を出そうとするために、むやみに勝ちにこだわるということは悪いことなのだろうか。

仮にそれが悪だったとしても、その後の勝ち方に影響が出るだろうし、本当に悪だと思った場合には次回以降は同様の勝ち方をしなくなるだろう。

そんなことよりも、まずは勝つことで結果を出さなければ誰も注目してくれないし、そんなキレイごとばかり言うような人は少なからず私は信用できない。

それよりも、まずは勝ちにこだわるような人を仲間にしたいと思う。

自ら誇る

これもなにが悪なのだろうか。

自分が生きてきた人生において、自分が誇れるものがない人ほど価値のない人なのではないだろうか。

というか、自ら誇れることがなければ、誰がどうやってあなたのことを評価するのだろうか。

他人が自分を評価してくれると思っている人ほどめでたい人はいない。

はっきり言っておくが、自分が思っているほど他人はあなたに興味などない。

そして、自分の価値がどこにあるのか説明できない人ほど、面白みもなく、なにか新しいことができる人ではない。

もっと言うと、自分を自分で褒めることができない人ほど成長できない人はいない。

自信をつけるということは、小さな成功体験の積み重ねだ。

となると、周りがいちいち自分のことを評価してくれることを待っているほど無駄な時間はない。

自分の定めた目標や目的を達成できたときには、思い切り自分を褒めることはとても重要なことだ。

それができない人は、人生においてなにもやってきていない人だということになる。

そんな人と誰が一緒に仕事をしたいと思うのだろうか。

自分自身を売り込めないということは、価値がないと言っているのと同じなのである。

怨む(うらむ)

怨むというほど、強い概念ではないかもしれないが、少なからず嫌いな人というか、怨み節がある物事や人はいるはずだ。

というか、そんなことは全くないという人を信用できるだろうか。

私はそんな聖人君子はこの世にいないと思っているし、そういった感情が少なからずある方が人間らしいと思ってしまう。

怨むという強い気持ちがあっても全然問題ないが、その気持ちをどのように発散するというか、その後に繋げていくかということが重要だ。

その矛先が変な方向に向いてはいけない。

私の場合、当然聖人君子ではないので、まずは純粋に相手に怨みほど強くはないにしても、やはり気持ちのいいことではない感情が向く。

それは昔からそうだし、今でも変わることのない、純粋な気持ちだ。

けれども、瞬間風速的にその気持ちが最大限になったとしても、それを引きずることはない。

サッサと次に向けて解決する方向へ舵を切るようにしている。

その時間が不毛であることをよく理解しているし、結局は自分自身の力が足りなかったということで落ち着かせるからだ。

自分が本当にやりたいことがあって、周りに邪魔されたくないと突き進んでいるときには怨むことも瞬時に過去のものにすることができる。

そして、そんな気持ちもポジティブになるエネルギーとして変換してしまえばいいのだ。

むさぼる

貪るという漢字を充てるわけだが、むさぼるという表現をあまりすることもないので、いまいちピンとこない。

その意味は、欲深く望む、飽くことなく欲しがる、いくら続けても飽きないといったことらしい。

満足することなく、飽きることなく求めることが、なぜ悪いのだろうか。

むしろいいことなのではないかとしか思えない。

貪欲という言葉を聞いてネガティブに捉える人は、やはり本気でなにかをやろうと思ったこともなければ、やり切ったという経験がない人なんだと思う。

継続してなにかを続けていれば、満足することなく高みを目指そうとするだろうし、飽きることなくハマることができる人は単純に素晴らしくないだろうか。

そもそも、そんな人が周りにいるだろうか。

欲があることが悪とされる理解が本当に理解できなくて、欲があるから頑張れるのが人間の本質なのではないだろうか。

あなたは、お金がもらえなかったとしても働くのかを問いかけてもらいたい。

そんな人いないだろう。

お金はあくまで道具の1つでしかないのだが、お金が発生しなければ資本主義ではなにかと不便だ。

となると、お金を発生させるということをやらざるを得ない場面も多々ある。

それはある意味で欲だし、それを否定することはもはや屁理屈でしかないと思うのである。

まとめ

克伐怨欲(こくばつえんよく)という四字熟語があっても、世の中に全く浸透していないのには理由があるだろう。

それは、この四字熟語が意味するところの4つの悪が簡単に善に置き換わるという主張を私レベルの人間にされてしまうからだ。

つまり、訴える力が弱すぎるので全く共感してもらえないからだ。

もしかすると、この言葉が激刺さりした時代もあるのかもしれないし、まだこうして残っていて私がピックアップしただけでも誇らしいことなのかもしれない。

けれども、共感を全く持たれない言葉はなんの影響もないということも同時に示してくれるいい例だと思う。

裏を返せば、自分の発する言葉にも、自分の意思を思い切りぶつけなければ誰にも響かないということでもある。

 

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植田 振一郎 Twitter

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