香囲粉陣(こういふんじん)
→ 多くの美人に取り囲まれるたとえ。
多くの美人に取り囲まれると聞くと、男性は羨ましいと思うかもしれない。
一方で美男子に取り囲まれると聞くと、羨ましいと思う人もいるだろう。
何度か書いていると思うが、私は日本のいわゆる戦国時代と呼ばれる時代が好きだ。
武将たちが命を懸けて、軍師たちと戦略を練り、運が左右されて天下統一を夢見る姿になぜか共感してしまうのである。
そんな戦国時代を生き抜いた武将たちには様々な逸話もある。
中でも有名なのが、今でいうBL、つまりボーイズラブの世界だ。
男色のはじまり
男色に関する最古の記述は、720年(養老4)年成立の日本書紀に遡る。
小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)の関係が発端となった、阿豆那比(あずなひ)の罪に関する物語がそれにあたる。
祝とは神主のことを指しており、小竹祝と天野祝の2人の神主が男色の仲にあったといわれていることに端を発している。
というのも、彼らは、善友(うるわしきとも)、つまり性的行為があった親友だったと記されているからである。
小竹祝が病気で亡くなったのを嘆いた天野祝が後を追うという結末なのだが、生前の希望通り2人を合葬する。
神様がそれを天津罪(あまつつみ)と考え昼間でも暗くしてしまったのだが、後に2人を別々に埋葬し直したところ昼が戻ってきたというのが、この物語の概要だ。
天津罪とは、神道における罪で、特に農耕や祭祀を妨害する行為を指す。
神様が2人の男色を咎めたと解釈する人も多いようだが、そもそも神主を合葬するという行為が儀式的に良くないとされたというわけだ。
いずれにせよ、この阿豆那比の罪の物語が、日本における男色文化のはじまりとされている。
男色の歴史
上述した日本書紀以外にも、万葉集、伊勢物語、源氏物語など、様々な歴史書に男色についての記載がある。
そして、武士という身分の立場の人たちが勢力を増していくと、貴族や僧侶との交流の中で武家社会にも男色は浸透していく。
そのきっかけを作った人物として、まず挙げられるのが足利義満だろう。
室町幕府を率い、南北朝を統一した足利義満は、貴族や僧侶から男色を含むあらゆる文化を積極的に取り入れ、後に流行する武士特有の男色文化である衆道の礎となったとされる。
衆道(しゅどう)とは、主君と小姓の間での男色の契りのことをいう。
将軍と将軍に仕えた者の関係をイメージしてもらえるとわかりやすいと思うが、肉体的だけでなく精神的な結びつきを特に重視した結果ともいえるだろう。
桂男の術といわれる、いわゆるスパイ任務を遂行する際に、美少年の色仕掛けにハマって殺された武将も数多くいるという。
ハニートラップの美少年版というわけだ。
その文化が明確に刻まれているのが、江戸時代前期に井原西鶴が記した、浮世絵草紙の男色大鏡だ。
当時、男神とされていた天照大神が日千麿命を衆道に基づいて愛していたと記載しているのだ。
さらに、井原西鶴は伊耶那岐命(イザナギノミコト)と女神・伊耶那美命(イザナミノミコト)の夫婦の神様が誕生するまでは、男神ばかりだったので、男色を楽しまれていたと主張している。
この井原西鶴の主張を鵜呑みにするならば、日本の男色の歴史は神代の時に遡るというわけだ。
男色の風習
室町時代には、庶民の男色についての記述も見られるようになっているのだが、これが外国人からすると衝撃らしい。
というのも、宣教師であるフランシスコ・ザビエルは、一神教と一夫一妻制、そして男色の罪を日本人に説明することの難しさを本国への手紙で嘆いている。
江戸時代においても、男色は女性を愛するのと同じように普通に扱われていたという事実もある。
また、江戸時代には、若衆歌舞伎が舞台後酒宴にお伴した先で売春行為を始めたことから、陰間と呼ばれる男娼も登場している。
その後、明治維新をきっかけに、西欧文明が取り入れられ始めると、日本でも男色は徐々にタブー視されるようになる。
明治時代になっても男色文化は色濃く残っていたのだが、1873年(明治6年)に、男性同士の性行為を罪とする、鶏姦(けいかん)罪が規定された。
鶏姦罪は、1882年(明治15年)にはなくなり、法律上で男色が禁止されることはなくなったが、明治後期には男色を悪とする考えも強まっていった。
大正時代に入ると西洋的な考え方はさらに浸透し、当たり前であったはずの男色は病気として扱われるようにまでなってしまったという背景がある。
現代では、LGBTという概念も浸透し始めており、少しずつではあるが理解が進んでいるように思うが、まだまだ偏見も多いのが実態だろう。
戦国武将が愛した男たち
ということで、私の好きな戦国武将が愛した何人かの男たちを紹介していこう。
森蘭丸(1565〜1582年)
森蘭丸は、勇猛な武将として知られた森可成の息子である。
小姓として織田信長に仕えていたのは有名な話で、蘭丸は俗称で本名は成利という。
織田信長と森蘭丸の間には大人の関係にあったとされるのが一般的な理解だが、実際にどうだったかは不明である。
とはいえ、森蘭丸は非常に機転が利き、よく織田信長を喜ばせていたことから寵愛されていたのは時事だ。
例えば、こんな逸話がある。
ある日、献上されたミカンが大量に乗せられた台を森蘭丸が運んでいると、織田信長が、その方の力では重たくて転ぶぞと注意した。
すると、その言葉どおり、森蘭丸は転んでミカンをばら撒いてしまう。
ただ、この森蘭丸の転倒は意図的なものだったというのである。
つまり、森蘭丸が転ぶことで、織田信長の判断が正しかったことを証明し、かつ自分の非力さ可憐さをアピールしたというのである。
他にも、織田信長に隣の部屋の障子が開いているから閉めてこいと命じられた際に、隣室に行ってみると障子はすでに閉まっていた。
これでは織田信長の面子が立たないので、森蘭丸は一度障子を開けて、ピシャリと大きな音を立てて閉めたという。
こういった森蘭丸の姿に織田信長はゾッコンだったというのである。
片倉重長(1585〜1659年)
片倉重長は伊達政宗の家臣で、知勇兼備で政宗の信頼が厚かった片倉景綱の息子である。
大坂の陣では剛勇で知られた後藤又兵衛を討ち取り、真田幸村と激闘を繰り広げるなどの活躍を見せて、鬼の小十郎という異名をとった人物だ。
そんな鬼は、出陣の前夜、主君である伊達政宗の接吻を頬に受けていたという。
片倉重長が戦の先陣を願い出ると、伊達政宗は、お前に先鋒を命じないで、誰に命じるというのかと言い放つ、片倉重長の頬にキスしたというのである。
この時、伊達政宗は47歳、片倉重長は29歳で、2人はかつて衆道関係にあったといわれている。
実際、片倉重長はかなりの美男子だったらしく、上洛した際、小早川秀秋に衆道の相手として望まれて断るのに難儀したという逸話もある。
高坂昌信(1527〜1578年)
高坂昌信は石和の有力農民の子だったが、16歳から武田信玄の側に仕えるようになり寵愛された。
武田信玄の異例ともいえる抜擢により頭角を現し、海津城の城代に抜擢された。
その後は、武田四天王の1人にまで数えられるほどに著名な存在となり、春日虎綱とも呼ばれ、大変な美貌の持ち主であったという。
この2人の関係で興味深いのが、武田信玄が高坂昌信に送った書状が残っていることだ。
その内容は、武田信玄が弥七郎という少年に手を付けたとして、高坂昌信が腹を立てたというものだ。
高坂昌信の言い分にのに対し、武田信玄は弥七郎はかねてから腹痛持ちなので、関係を断られたというような返答をしているのである。
要するに、高坂昌信に浮気を疑われた武田信玄は、懸命に浮気をしていないと弁明しているというわけだ。
前田利家(1538〜1599年)
加賀100万石の始祖である前田利家は、若いころに織田信長と同じく傾奇者で知られ、目の下に矢が刺さったまま敵陣に突撃するという命知らずの勇将だったといわれている。
その名乗りから槍の又左衛門とも呼ばれ、身長が182cmもある偉丈夫だった。
ちなみに、織田信長の身長は徳大寺に残された等身大の木造から、166~169cmと推測されている。
そんな前田利家だが、彼が14歳で小姓として主君の織田信長に仕えていたころ、2人は衆道の関係にあったとされている。
加賀藩の史料である、亜相公御夜話によれば、安土城に家臣を集めた宴会の席で、織田信長が若いころに利家が自分の愛人であったとこを明かしたという。
まとめ
他にも藤原道長の後を継ぎ、摂関政治の最盛期を謳歌した藤原頼通、徳川家康、松尾芭蕉といった人物たちの男色話もある。
このように日本の歴史を遡ってみても、BL(ボーイズラブ)は奥深い。
登場した人物のほとんどは女性に対しても色恋の話がある。
私がいいたいのは、まあいつの時代もみんな楽しくやっていたのだから、現代でもそんなに咎めるようなことはしなくてもいいのではということだ。
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