形影相同(けいえいそうどう)
→ 心の良し悪しが行動にもあらわれること。
心の良し悪しが行動にもあらわれるというのは、まさにそのとおりだと思う。
健康第一という言葉があるが、これは健康であるときには、あまり意識されていないことだろう。
ましてや、若いときほどなんとかなると思い込んでいる傾向がある。
かくいう私も、若いときには健康などあまり考えたことはなかった。
ところが、歳を重ねていくうちに、仕事のパフォーマンスを上げるということを意識するようになり、考え方が変わった。
仕事のパフォーマンスを考える
40歳前後の世代の人ならわかると思うが、我々の世代はまだ体育会系が通じた時代だ。
根拠のない精神論で教育を受けた場面に出くわしたことがある人もいるはずだ。
私はこのことについて、過去の教育を攻めるつもりはない。
大切なことは過去ではなく将来で、将来をよくするためには、今を最大限生き抜かなければいけないからだ。
となると、双方を変えていく必要が出てくる。
双方とは、1つは教育側の人間のマインドだ。
それよりも、もっと大切なことは、教育を受ける側、あるいは受けてきた側の人間のマインドである。
要するに、意識の改革は教育を受ける側、受けてきた側にこそ必要だということだ。
具体的には、どうやったら、健康でいられるのかを意識するということである。
そして、それは冷静に考えると、そんなに難しいことではない。
この話も何度もしているが、保険には簡単に入るのに、予防するという意識があまりにも低い人が世の中には多いということだ。
大切なことは、病気をした後に保険に入っていたから安心という、長年に渡る保険会社などの刷り込みよりも、健康でいられる時間を増やすために予防をしていくということだ。
それが、結局仕事のパフォーマンスに繋がるということである。
仕事のパフォーマンスを上げるための意識
そのためには、意識をするということと習慣にしていくことが大切だ。
習慣を変えていくことは、なかなか難しいのだが、自分がどうありたいかを常に意識していれば、自ずと習慣は変わっていくはずだ。
逆にいうと、習慣を変えることができないようであれば、それは自分の意識が弱い、つまり本当に成し遂げたいと思っていることではないということだ。
こうやって書いていくと、私自身が聖人君子かのような印象を受けるかもしれないが、そんなことはない。
私は楽な方向に流れてしまいやすいし、見張ってもらう人がいなければサボってしまう、本当にポンコツ人間だ。
ポンコツだからこそ、ポンコツのまま終わりたくないという意識が習慣を変えてきた。
とはいえ、ここもバランスが重要で、やりすぎは良くない。
極端すぎると、そこには必ず弊害が生まれる。
まずは、自分自身がどうありたいか、自分の好きな生き方に従順になればいいということだ。
好きな時間に起きて好きな時間に寝たい、好きなことだけして過ごしたい、好きなものだけ食べたい、好きな人とだけ付き合いたいといった、そんな根本でいいのである。
ただ、好きなことを続けるためには、嫌なことや嫌いなこともやらなければいけないという意識が足りないのは問題だ。
矛盾した表現になるが、好きなことをやり続けるためには、嫌なことや嫌いなことをやることは避けて通れないのである。
仕事へ向き合うことで最もやってはいけないこと
日本の義務教育は平均を求める教育というのが、いまだに続いている。
この弊害はかなり大きいと思っていて、小学校の教育を見ていればよくわかる。
どの授業も平均的に万遍なく行われ、生徒側に選択する権利などない。
よくよく考えれば、好きな教科や苦手な教科があるのは当然なことなのに、それでも無理やりやらされる環境にある。
なんなら、苦手な教科ほど補習や追試などを受ける状況に追い込まれてしまう。
そうなったら、どうやって好きになることができるのだろうか。
嫌なことを追い込まれてやらさせると、どんどん嫌いになっていくのが人間の心理だ。
この根本にあるフローが仕事のパフォーマンスを下げる要因になっていると私は考えている。
つまり、苦手なものでも克服しなければいけないという間違った教育だ。
私からいわせると、苦手なものはいくつになっても苦手だ。
それはマインドの問題で、ストレスに感じてしまうことで、あらゆるパフォーマンスを下げてしまうからだ。
だからこそ、苦手なものに対しては真正面から向き合ってはいけない。
苦手なものは得意な人に任せるというマインドを身につけることが重要なのである。
仕事のパフォーマンスを上げるための最重要意識
苦手なものからは、とことん逃げた方がいい。
けれども、いきなり逃げることはしない方がいいだろう。
まずは自分でやってみるというスタンスは習慣化すべきである。
自分でやってみないことには、好きも嫌いもわからないからである。
そして、その中で好きだというジャンルをどんどん増やしていくことこそ、仕事のパフォーマンスを上げるために最も重要なことなのである。
過去にやってきたものの中で、好きだというもの、あるいは得意だというものにプラスして、今までやってきたことのないものの中から好きなこと、得意なものを増やしていくのである。
それこそが、その人自身の価値に繋がるということだ。
この分野は苦手だから、得意な人に任せる。
その代わり、この分野は私の好きで得意な分野だから任せてくれと宣言し、その分野に対してしっかりと結果を出せばいい。
この意識こそが重要なのだが、なかなかわからない、わかっていても上手く処理できていな人が多いように思う。
自分1人で抱えることは責任ではない
責任という言葉を間違えて捉えていると、自分1人でなにもかもを抱えてしまう傾向がある。
一見するとそれは責任感の強い人だと見えるかもしれないが、実はそれは間違っている。
1人でなにもかも抱え込んでしまい、誰にもなにもいえずに結局なにもかもができていないとなってしまっては本末転倒である。
責任を持つということは、いろんな人の手を借りてでも、やるべきことを達成するということだ。
そのためには、自分1人の力でやろうとせず、素直に自分にはできないからお願いすればいいのである。
その代わり、私はこの分野を徹底してやるという宣言をし、宣言した以上はしっかりと成果を出すということこそが責任だ。
24時間、365日という時間は誰にでも平等にある。
けれども、その使い方はその人の意識と習慣によって大きく異なるからこそ、様々な場所でいろいろな差が出るのである。
くり返すが、自分1人でやるということは責任ではなく、むしろ無責任に繋がる可能性が高い。
まとめ
自分1人で抱える人には心配な側面もある。
誰にも相談ができないとか、そういう環境にいないという人は、心の病気になりがちだからである。
メンタルをやられると、なかなかその後の人生において最高のパフォーマンスをするということが難しくなるのも現状だ。
うつ病と診断されたという声を多方面から聞く機会があると、仕事とはなんなのかということを考えてしまう。
自分がこうありたいという姿は少なからずあるはずなのに、自分のやりたいことがないとか、好きなことがないという人も多い。
そんなに壮大な夢を語れといっているわけではなく、目の前の小さなことで十分なのに、なぜか勝手に大きくしてしまう。
私のような超絶ポンコツ人間が偉そうに文章を書いているが、その根本はグータラでなにもしたくないという本当に人間の底辺という部分が強くある人間だ。
それでも、一度しかない人生だから、せっかくなら楽しかったと最期に胸を張って言える人生を送りたいと思っているだけだったりする。
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