一殺多生(いっせつたしょう)
→ 一人を殺して(犠牲にして)多数を生かす(救う)という思想。
平等という概念が強すぎる傾向にある日本。
順位をつけることに遠慮し、生活基準や教育を弱者に合わせてしまう。
もちろん、メリットもある。
日本ほどセーフティネットが発達している国は世界にもない。
よっぽどのことがなければ飢餓で死ぬこともなければ仕事がなくても生活保護という選択肢も取れる。
でも、その弱者に合わせた極端な平等教育が弊害を生んでいることは間違いない。
失われた10年というワードが失われた30年というワードに置き換わったのが象徴だ。
日本国内しか見ていないと失われるものも多いということだ。
50代以上の人は逃げ切れるかもしれないが、それ以下の世代の人はもっと危機感を持たなければならない。
日本を出ることの大切さ
私は少しでもはやいうちに、日本国外へ行くことを推奨している。
そして、目的を持たなくてもいいと思っている。
旅行でもいいし、行く場所もどこでもいいから、とにかく刺激を受けることに興味を持って欲しい。
というのも、私が初めて海外へ行ったのは22〜23歳にかけてのときだった。
きっかけは、大学を卒業した前後にある。
大学3年生になると、当たり前のように就職活動というイベントが始まる。
大学の構内には就活に関する資料が配られたりとする中、全く興味がなかった私を心配した大学の同期が声をかけてきた。
ちゃんと就職活動をした方がいいから、一緒に来るように言われたのは大学の講堂だった。
そこには、同じ大学3年生がたくさん集まって、企業の採用担当者にいろいろと質問をする光景が広がっていた。
その空気と違和感に耐えきれず、すぐにその場を後にした私は就職活動をしたことがない。
とはいえ、大学を卒業してからなにをするのかを考えていかなければならない。
そんな私が興味を持ったのは弁理士という職業だ。
知的財産権、いわゆる特許に関する業務を行うための国家資格者を目指すという選択をした。
ところが、難しい資格で思うようにいかない中、考え方を根本から覆される出来事があった。
詳しくはまた別の機会に書くとして、資格を取ることの必要性を感じなくなった私は、スタートアップ企業、ベンチャー企業に入ることを決意した。
その前に海外へ行っておこうと決めた。
場所は大学でドイツ文学を専攻していたので、ドイツとせっかくならということでロンドンへ約2ヶ月間行った。
ロンドンでは語学留学ということにして、レイトンという郊外のホストマザーの家で過ごした。
ドイツはハイデルベルクという街を拠点に、主要都市のほとんどを回った。
日本を出る前は不安しかなかったが、帰国したときには心から行ってよかったと思った。
具体的なことはないが、自分自身が少しだけ成長した気がした。
世界の海外留学生数 国別ランキング
2018年のデータにになるが、留学生が多い国のランキングだ。
- 中国:993,367人
- インド:375,055人
- ドイツ:122,538人
日本は115,146人となっている。
大学生の数が約17万人ということなので、中学生や高校生を含めると、比較的多いと感じる人もいるかもしれない。
けれども、今まさに世界のトップを走ろうとしている中国やインドの留学生数を見ると明らかに少ない。
当然、人口比率なので限界はあるのだが、多くの学生が海外で学んだことをそのまま他国で展開したり自国に持ち帰る。
そうすると自然と新陳代謝が行われることは容易に理解できるだろう。
私は国力に差がついているのは明らかで、このままでは差が開く一方なのを食い止めようなどと大きなことを発言するつもりはない。
個として、単純に海外へ行くことで刺激を受ければ、生き方や視野が少なからず拡がるはずだということを提唱している。
その小さな個の動きが社会や国の力にも繋がっていくと思っている。
中国の上海で過ごした2年の月日
それから、もう1つ私自身の経験を話しておこう。
2011年3月、日本では東日本大震災が起こったあたりから、2年と少しの間、上海で過ごしたことがある。
前職の株式会社ティーケーピーの上海支社の立ち上げで行ったのだが、衝撃の連続だった。
20代のうちに、1回は海外で働いておきたいと思って選んだ上海という場所は、本当に刺激的だった。
その経験もあって中国、とりわけ上海に関する見解は多くの人とは異なる。
結論からいうと、上海では惨敗に終わった。
けれども、学ぶことも多くあった。
だから、あえて私は大きく出ようと思う。
stakのビジネスをなんとしてでも、どこかのタイミングで海外へ持っていく。
ただ持っていくだけでは面白くないので、そりゃ爆裂させるしかないでしょ。
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