非驢非馬(ひろひば)
→ 驢馬(ろば)でも馬でもない意から、主体性がなくどっちつかずであること。
非驢非馬という言葉は本来、驢馬(ロバ)でも馬でもないという文字通りの意味を持っていた。
それが今では「どっちつかず」「主体性に欠ける」というニュアンスで使われることが多いと言われている。
古代中国の故事成語をたどると、この「非驢非馬」という表現に近しい言い回しが散見される。
いずれも驢馬なのか馬なのか判断しかねる曖昧さを嘲笑する文脈で登場し、最終的には「中途半端」「はっきりしない存在」というレッテルを貼られてきたようだ。
中世以降の日本にも文脈は多少形を変えながら受け継がれ、近代では知識人の間で「主体性のなさ」や「曖昧さ」を批判する言葉として使われるようになった。
実はこの非驢非馬という概念、現代では単なる国語的表現を超えて、多方面において中途半端さを問題視する社会の空気感を示すキーワードとして機能している。
誰もが即断即決を求められ、自らのスタンスを明確化しろと言われる風潮の中、「非驢非馬であること」は一種のタブーとして認識されがちになっている。
しかし、本当に「非驢非馬」でいることは悪いことなのか。
むしろ曖昧さや中庸こそが、イノベーションを生む呼び水になるのではないか。
にもかかわらず、世の中は白か黒かを求めがちだ。
そこで、この曖昧さを象徴する非驢非馬という概念を深く理解するためにも、まずは「驢馬(ロバ)と馬」という二つの生物を徹底比較してみる必要があると考える。
曖昧さを批判する言葉がどこから来ているのか、生物学的側面を押さえることで見えてくるものがあるはずだ。
驢馬と馬の徹底比較データ
驢馬と馬は同じウマ科に属するが、その性質や身体的特徴、さらには遺伝子レベルでも大きく異なる部分がある。
国際家畜遺伝学会の研究(2022年)など複数の文献を基に、以下のような主な比較データをまとめてみる。
1)体高
- 驢馬(ロバ): 平均90〜130cmほど
- 馬::平均140〜180cmほど
馬と比べて驢馬は体高が低いことが多く、小型のポニーと同じくらいのサイズのものから、大きいものでも馬の平均よりは小柄な場合が多い。
2)体重
- 驢馬(ロバ):約80〜400kg(品種によっては480kgに達するものも存在)
- 馬:約380〜1,000kg
驢馬のほうがバリエーションはあるものの、超大型馬のような1t近い体重に達する例は稀である。
3)染色体数
- 驢馬(ロバ):62本
- 馬:64本
この微妙な違いから、驢馬と馬の交配で生まれるラバ(雄驢馬×雌馬)やケッティ(雄馬×雌驢馬)は染色体数の不一致により繁殖能力が非常に低い、もしくは事実上子孫を残せない。
4)寿命
- 驢馬(ロバ):30〜50年ほど
- 馬:25〜30年ほど
驢馬は馬よりも比較的長寿と言われる。
イギリスの家畜調査(2021年)によると、驢馬が40年近く生きるケースは珍しくない。
5)脚力・スピード
- 驢馬(ロバ)平地での最高速度が時速およそ20〜25マイル(約32〜40km/h)
- 馬:平地での最高速度が時速およそ45〜55マイル(約72〜88km/h)
馬は走る能力が高く、競馬の世界では時速60km/hを超える例も存在する。
一方の驢馬はスピードよりも持久力や安定性に優れる傾向がある。
6)行動特性
- 驢馬(ロバ)慎重で警戒心が強いが、一度納得すれば頑固なまでに任務を遂行し、地形の変化にも強く、危険を回避する能力が高い
- 馬:瞬発力と俊敏性に優れるが、環境の変化に敏感でパニックになりやすい場合がある
家畜として使う場合、驢馬は荷物運搬などの長距離移動に適しており、馬は軍用や移動、スポーツ利用などに適している。
以上のように、驢馬と馬は見かけこそ似たウマ科の動物ではあるが、身体構造から生態まで意外なほどに異なる。
古代においては、驢馬は頑丈で持久力が高い運搬用家畜として重宝され、馬は速度と機動力に優れ、乗用や軍事用に重用された。
これらの特徴は時代が進むにつれ更に洗練され、馬が各地で品種改良される一方、驢馬は高地や荒地での運搬のニーズがある地域で生き続けてきた。
こうした二つの動物の特徴を曖昧にしてしまう「非驢非馬」という表現には、もともと「驢馬としても使えず、馬としても使えない」というニュアンスが隠されている。
つまり、どの用途にも特化できない中途半端な存在を揶揄する言葉だということだ。
非驢非馬がもたらす問題
問題提起は、「非驢非馬の状態」がなぜ社会において問題視されるのかという点にある。
曖昧さは確かに柔軟性を生む反面、「主体性を持たない」という批判を受ける原因にもなる。
特にビジネスシーンにおいては、スピード重視の意思決定が求められることも多く、非驢非馬的な立ち位置は「どちらに進むのか決めきれない」という停滞要因になりがちだ。
意思決定において曖昧なまま時間を浪費すると、会社全体の生産性にも悪影響を及ぼす。
国際コンサルティング企業が2021年に発表したデータによると、明確なリーダーシップやビジョンを欠く組織はプロジェクトの完了率が平均で20%以上低下し、プロジェクトが期限内に完遂される確率は30%近く下がるという。
非驢非馬とはまさにこのような「はっきりしない態度」の代名詞として捉えられているため、組織からすると歓迎される存在ではない。
しかし一方で、人間関係においては白黒つけられないグレーな領域が存在することも事実だ。
中途半端な答えしか出せない状況は往々にしてあるし、イノベーションの種がそこに潜んでいる可能性もある。
私はstak, Inc.のCEOという立場上、「白か黒か」を決断する瞬間も多いが、あえてグレーゾーンを活かし、全く新しい発想を組み上げることも大事だと感じている。
曖昧さ自体が悪いのではなく、それが「主体性のなさ」と捉えられてしまうことが問題の本質にあるのではないか。
データが示す現代の非驢非馬現象
ここで非驢非馬的な曖昧さに対してより具体的に数値データを当てはめ、現代における問題を浮き彫りにする。
ビジネス領域で例を挙げると、意思決定の遅れや優柔不断が企業の利益にどう影響を与えるかを示すデータが興味深い。
2022年にアメリカの大手ビジネススクールが300社以上を対象に行った調査では、経営トップが新規事業への投資決定に迷い、判断を半年遅らせた場合の機会損失は年間売上の5〜10%に相当するという。
つまり、せっかくのチャンスを待っている間に競合他社に先を越される可能性が高まるわけだ。
「驢馬としても馬としても使えない状態」が長引けば、それはすなわち「どんな価値も生み出せない」期間を増大させる。
結果的に投資リスクが増大し、株主や従業員に対しても説明がつかなくなるケースが生じる。
この事象は個人単位でも同様で、キャリアの選択やスキル習得の方向性を決めかねてズルズルと行動を起こさなかった場合、データで見るとその人が生涯にわたり得られたかもしれない賃金が下がるリスクが指摘されている。
具体的には厚生労働省が2020年にまとめた統計で、「転職を検討しているが決められない」と回答した人は全体の15%ほど存在している。
そのうち1年以上同じ状況を続けると、転職により年収アップできる機会を平均で約12%逃してしまう可能性があるとの見方が示されている。
非驢非馬的な曖昧さは人間社会において珍しいことではないが、これが長期化したり常態化したりすると、数値としてはっきり機会損失に繋がることが多い。
ここに「非驢非馬=どっちつかずで主体性がない状態」という否定的なレッテルが成立する根拠がある。
視点を変えて見る非驢非馬の可能性
一方で、常に白黒はっきりさせることだけが正義かというと、そうとも限らない。
曖昧さこそが新しいアイデアを生む原動力になる場合があるからだ。
たとえば驢馬と馬は、互いの特性を組み合わせることでラバやケッティという交雑種を生み出してきた。
ラバは荷物運びには非常に適しているなど、親の両方の利点を受け継ぐ特性を持つとされる。
これはビジネスの世界でも例えられる。Aという業界の手法をBという業界に応用することで、どちらにもない発想が生まれるケースは多々ある。
私がCEOを務めるstak, Inc.も、IoTデバイスにかつてなかった機能拡張性を持たせるという「掛け合わせ」で新しいプロダクトを作っているが、そのアイデアは「これまでになかった機能」同士をかけ合わせる曖昧な段階から芽生えたものだ。
2023年の国内スタートアップ調査によると、まったく新しい市場を開拓している企業の約65%が「異なるジャンルの技術やアイデアを組み合わせた結果、新規性を生み出した」と回答している。
この数字は、曖昧な試行錯誤が決して無駄ではなく、むしろイノベーションの源泉になりうることを示す一例といえる。
馬と驢馬のどちらのメリットも生かせるなら、あえて中途半端に見える領域に踏み込んでみる価値があるのだ。
実際に非驢非馬の姿勢をあえて取りながら、新しいビジネスモデルを生み出している企業も少なくない。
大手企業が絶対にやらない曖昧な仮説検証を繰り返すことで、大企業にはないスピード感と柔軟性を確保しているケースだ。
非驢非馬であることを主体的に選ぶなら、それは強みに変わり得る。
まとめ
最後にもう一度データに戻り、非驢非馬がもたらす可能性とリスクを整理する。
ビジネス上の大きな決断をためらった場合、機会損失が企業の売上の5〜10%に至るというデータや、個人が転職に踏み出せず年収アップのチャンスを約12%失うリスクがあるという統計からは、「主体性を持たない曖昧さ」はやはり高い代償を伴うことが明白だ。
しかし、全てを白黒はっきりさせることだけが正解ではない。
驢馬と馬の交雑種が大きな利点を持つように、曖昧さをあえて取り入れるアプローチから生まれるイノベーションも存在する。
私がCEOを務めるstak, Inc.でも、どちらか一方だけに振り切るのではなく、複数の機能や領域をクロスさせることで新たな価値を創出している。
結論として、非驢非馬という言葉が示す「中途半端さ」や「主体性のなさ」は、放置すれば確かにデータが示すように数々の損失をもたらす。
一方で、それを意識的に活用すれば、馬にも驢馬にもない新しい地平を切り開く糸口になる。
曖昧さは決断を鈍らせる要因になり得るが、同時に唯一無二のアイデアを生む土壌にもなるということだ。
非驢非馬であることを批判的に捉えるだけでなく、いかにその曖昧さを主体性ある形に変換できるかが問われている。
馬でも驢馬でもない生き方は、一見中途半端に見えても、そこにこそ新たな発見とチャンスが眠っている可能性は高い。
行動を起こすかどうか、選択の責任を負うかどうかを自分の意思で選び取る姿勢さえあれば、非驢非馬は決してネガティブな要素ではなくなる。
驢馬と馬の違いを徹底調査したデータから学べるのは、両者が全く別物でありながらも、適所適材で大いに役立ってきたという事実だ。
それぞれが異なる強みを発揮するように、非驢非馬的な曖昧さであっても使い方次第で大きな力を発揮する。
中途半端さを受け入れた上で、自分の軸はどこにあるのかを見定めることこそが、現代における主体性の本質といえるだろう。
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