皮裏陽秋(ひりのようしゅう)
→ 直接口に出して言わないで、心の内で人を褒めたり批判したりすること。
日本語には「皮裏陽秋」という言葉がある。
表向きには口にしない批判や賛同の意を、心の底では抱いている状態を指し、他者との軋轢を避けつつ内心をうまく隠している様を表現するときに用いられることが多い。
しかしこの言葉は、単なる「表に出さない本音」というよりも、もっと奥深い歴史的背景と文化的背景をもつ。
古来の日本において、言葉は神聖なものと捉えられ、文字や発言そのものに強い力が宿ると考えられていた。
ゆえに、むやみに他者を批判したり、あるいは過度に自己主張したりすることははしたない振る舞いとされていた。
そうした価値観が時代を経て成熟する過程で、皮裏陽秋のような「表には見せないが内心は意見をもつ」コミュニケーションが自然に育まれた。
この文化背景をたどるとき、まず注目したいのが中世から近世にかけて形成された武家社会の価値観だ。
室町時代末期から江戸時代に至るまで、人々は武家の礼儀作法に強い影響を受けながら日常を過ごすようになった。
武家社会では無駄な争いを避けるため、直接的な感情表現を慎む作法が重視されていたという史料が残っている。
江戸幕府の文献や、大名家に伝わる口伝書には「口に出す前に心中で十度吟味せよ」といった旨の戒めが散見される。
表面上は相手に敬意を払い、内心では賛否を思案しても言動には表さず、場の空気を壊さない。
この姿勢が現代にまで継承され、皮裏陽秋の概念の一端を担っていると考えられる。
さらに、神道や仏教といった宗教的要素もこれに影響を与えてきた。
神社仏閣の参拝方法には儀礼や作法が多く、集団行動の中で無言のまま呼吸を合わせることで秩序を保とうとする姿勢が人々に浸透していった。
言葉よりも行いで示すことが尊ばれた結果、「察する」コミュニケーションが重視され、その根底には皮裏陽秋のような発想も受け継がれた。
こうした背景が複合的に絡み合い、日本では以心伝心や空気を読むという文化が自然と定着していった。
日本人は本当に表現力が弱いのか?
グローバル社会の文脈で語られるとき、日本人は「自己主張が苦手」「イエス・ノーを明確に言わない」などと評価されることが多い。
実際、海外でビジネスを経験したことがある日本人からも「会議の場で遠慮して意見を言えなかった」「気乗りしない提案でも建前上は賛成してしまった」といった声は少なくない。
ジェトロ(日本貿易振興機構)が2019年に日本企業の海外駐在員500名を対象に実施したアンケート調査によると、「自分の意見を他者にわかりやすくプレゼンできる自信がある」と答えた割合は約26%だった。
これは、アメリカやイギリスの駐在員が同様に答えた割合(いずれも50%超)と比べてかなり低い数値となっている。
さらに、外務省が2020年に発表した「国際会議における発言回数と議案採択への影響度」に関する調査でも、日本人の参加者は平均発言回数が他国参加者と比べて約60%ほど少なかった。
この調査からは、言葉による直接的なアピールよりも、相手の表情や空気感を読み取って議論を進めようとする日本人の傾向が見て取れる。
自己主張をしないというより、むしろ慎重に状況を把握したうえで相手に合わせようとする姿勢があると言えるが、こうした行動パターンが対外的には「表現力が弱い」と映ってしまう。
これが問題となる最大の理由は、国際ビジネスや学会での発言機会が大きく損なわれることだ。
日本人が優れたアイデアや技術をもっていても、それを効果的にアピールできなければ評価が上がりにくい。
皮裏陽秋に象徴される「内に思いを秘める」アプローチがマイナスに働くケースが、現代のグローバル社会では増えているというデータがある。
ここで生まれる問題提起は単純で、「空気を読む文化」は本当に時代遅れなのか、あるいは「表現力が弱い」という認識そのものに誤解があるのかという点に尽きる。
以心伝心と空気を読むことは本当に否定的か?
前章で示したデータを見る限り、日本人が海外で活躍するには自己表現の強化が必要だという印象を持つかもしれない。
しかし別の調査データを見れば、「空気を読む文化」にはむしろプラスに作用する面があることがわかる。
たとえばハーバード大学の国際コミュニケーション研究チームが2021年に実施したグローバル企業500社へのアンケート調査では、「チーム内の摩擦を最小化し、日々の調整コストを下げる手法」として評価が高かったコミュニケーションスタイルの一つに「コンテクストを共有した上での会話」が挙げられた。
これは一見すると空気を読み合う日本型の文化に近く、相手の発言やシチュエーションから暗黙の了解を読み解いてスムーズに意思決定を行う姿勢と捉えられる。
この研究チームによる追加分析では、製造業やサービス業などの現場レベルで作業員同士が細やかな意思疎通を必要とするとき、日本的な「察する」能力が顕著にプラスに作用するとの結果も出ている。
具体的な数字としては、製造ラインに従事する従業員を対象にした協力体制の調査で、アメリカの企業より日本企業のほうが作業員同士の無言の連携によって生産効率を向上させる傾向が約1.3倍高かった。
これは空気を読む力が、言語の齟齬や不要なコミュニケーションコストを減らしている可能性を示唆している。
一方で、海外の研究者からすれば、このような「空気を読む」手法がマニュアル化しにくいという欠点も挙げられる。
だが定量的に見ても、コンテクスト共有能力がチームワークを良好に保ち、些細な問題を事前に察知して対処するうえで役立つというメリットは無視できない。
つまり、以心伝心や空気を読むカルチャーにはデメリットだけでなく、国際的なビジネス環境においても強みとして生かせる部分が存在する。
具体的に見えてくる5つの事例
では、この空気を読む文化や皮裏陽秋が実際にプラスに作用する、あるいは問題を引き起こす事例をいくつか紹介する。
1)大手自動車メーカーA社の品質管理プロセス
品質管理部門が無言でサポートし合う文化が根強く、他部署との連携不備を未然に防ぐ仕組みが確立している。
トラブル時に必要最低限しか口にしないが、相手の意図を察して即時対応するケースが多いため、海外拠点と比較してクレーム発生率が20%ほど低いデータがある(A社社内報告書より)。
2)IT企業B社のグローバル会議における意思決定遅延
海外役員とのオンライン会議で日本側の意見表明が常に遅れるため、重要なプロジェクトの開始が2週間遅れたケースが報告されている。
B社の社内サーベイによると、日本チームのメンバーが「言い出しづらい」「その場の空気を壊したくない」という心理的負担を感じていた割合は約60%。
結果として海外チームから「表現力が弱い」と指摘を受けた。
3)医療現場での患者ケア
国立大学附属病院の看護師を対象にした2022年の研究(研究代表者: 看護学研究科X教授)によると、「患者が詳しく言葉にできない不安を先読みし、声をかけたりケアを施したりできる能力」が日本の看護師には比較的高いという評価がなされた。
欧米の看護師と比較したときのデータでは、日本人看護師は患者の表情や態度からニーズを察知して補助するタイミングが約1.5倍速い傾向が観察されたと報告されている。
4)コンテンツ制作会社C社の国際共同プロジェクト
映像制作の国際チームで進められたドキュメンタリー番組の編集作業において、日本側が求める細部の修正点や演出のニュアンスを明確に説明しないまま相手に察してもらおうとした結果、最終納品が遅延してコストが増大した。
C社の内部監査で判明したところによると、「遠回しに要望を伝えたことが理解されなかった」という声が日本側の制作チームから多く聞かれた。
5)飲食チェーンD社の海外店舗研修
日本独特の「職人気質」と「以心伝心」の文化を海外にも導入しようとした結果、最初はトラブルが頻発していたものの、スタッフ同士の視線や動きを意識して改善を進める方式を徹底したことで、スタッフ間の連携が上手くいき始めた。
D社はこれをマニュアル化して全店舗に共有したところ、顧客満足度が開店半年後には15%向上したとされる(D社海外事業部資料より)。
これらの具体事例が示すように、皮裏陽秋や空気を読む文化が良い方向に働くケースもあれば、逆に理解不足からトラブルを生む例もある。
単純に「日本人は表現が苦手」と一括りにされるのではなく、環境や目的に応じて臨機応変に使い分けることが重要だとわかる。
歴史的に根付いた「以心伝心」文化の深化
なぜ日本人がこのように表に強い自己主張を出さずとも、相手の気持ちを察する文化を重視してきたのか。
理由のひとつとして挙げられるのが、島国である日本の地理的条件と自然災害の多さだ。
国土が限られた空間に集中しているため、集団の和を乱す行為は生存戦略として不利になりやすい。
歴史上、地震や津波、台風などの自然災害が頻発する環境で共同体を維持してきた日本人にとって、衝突を極力避けて協力体制を構築することは必須だった。
言葉で衝突する前に相手の意向を汲み取り、場の調和を保つ。この志向が長年の間に文化的に深く根付いたと考えられる。
また、和歌や俳句などの短詩形文学が発達した背景も見逃せない。
限られた文字数の中で感情や情景を読み取る習慣が身につくと、言外に含まれる意味を推察する訓練が自然と培われる。
古今和歌集や新古今和歌集には、直接的な言葉よりも暗示的な表現で余韻を楽しむ作品が数多く収録されている。
こうした「短い言葉に凝縮する」美意識が、日本語のコミュニケーション全般に影響を与えているという指摘もある。
コミュニケーションの未来
私はstak, Inc. のCEOとして、世界に向けて様々なモノを提案していく立場にある。
ここで重要なのは「日本的なコミュニケーション」をあえて否定せず、むしろ強みとしてどのように活用するかという視点だ。
たとえばstakという機能拡張型のIoTデバイスを企画・開発・運営していくうえでも、ユーザーのニーズや不満は必ずしも言葉だけで表現されるわけではない。
「何となくこうあってほしい」「ユーザーインターフェースで直感的に感じたい」という要望があるとき、テキスト化されない潜在的声を読めるかどうかが、製品のクオリティを左右する。
もちろん、国際的なイベントでプレゼンをする場面では、はっきりと言語化してアピールするスキルも不可欠になる。
しかし、裏を返せば自分たちがもともと磨いてきた「相手の気配を察して先回りする」という能力をプラスに変えれば、顧客満足度を大きく向上させることができる。
stak, Inc. のコーポレートサイトでも、訪問者が求める情報に素早くアクセスできるようにUI/UXを徹底的に見直し、視覚的に直感が働くような工夫を施しているのは、日本的な感性の強みを生かした一例と言える。
まとめ
前述の通り、日本人の「皮裏陽秋」や「以心伝心」「空気を読む」文化は、グローバルな視点から見ると表現力不足と批判されがちな側面をもつ。
しかし、実際のデータや事例を細かく掘り下げれば、それらが日本社会の中で培われた高度なコミュニケーション技術であることがわかる。
むしろ繊細なコンテクスト把握力や周囲との協調力が、ものづくりやサービス向上で高い成果を生み出している事例も少なくない。
例えば、空気を読む力が組織内の人間関係を円滑にし、生産効率を高める。
国際的なプロジェクトでも、日本の察する文化を上手に説明し、明確な指示やデータと組み合わせて提示すれば、その利点をきちんと理解してもらえる可能性がある。
表立って自己主張をしなくても、内心に強い意見や批評精神を抱えながら状況をコントロールすることは、決して悪いことばかりではない。
一方で、海外でのプレゼンテーションや交渉など、はっきり言語化を求められる場面では臨機応変に切り替える必要がある。
皮裏陽秋という概念が持つ「内心に強い思いを抱きつつ表には出さない」バランス感覚と、グローバル社会での直接的な自己表現をどう融合させるかが今後の鍵となる。
日本文化の長所である以心伝心を失わずに、自分の考えを堂々と語る力を身につけることこそが真の国際競争力につながる。
stak, Inc. のCEOという立場で、より多くの人にこの考え方を共有していきたい。
日本には日本の良さがあるし、それを正しくデータとエビデンスで裏打ちしていけば、世界的にも十分に評価される。
批判を恐れず、しかし相手へのリスペクトを忘れない。
そんな絶妙なバランスを保ちながら、企業としても個人としても飛躍していく時代が来ている。
最後に、皮裏陽秋とは単に「本音と建前」を使い分けることではなく、人間の奥深い思考や感情を社会の中でスムーズに調整するための一つの知恵だと位置づけたい。
日本文化の根底にある以心伝心や空気を読む力を、グローバル社会に合わせてアップデートできれば、競争力はさらに強固なものとなる。
対立や衝突を避けつつ、必要な主張を的確に伝える。この柔軟性こそが、日本がこれから世界と渡り合っていくための大きな武器になると考えている。
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