三人文殊(さんにんもんじゅ)
→ 凡人でも衆知を集めれば、いい考えも浮かぶということ。
ギュッとすればこの4文字に集約されるということだが、三人寄れば文殊の知恵ということわざなら聞いたことがあるという人も多いだろう。
個人的な理由になってしまうが、広島という地で生まれ育つと、毛利元就という1人の戦国武将に出くわす機会が必ずといっていいほどある。
未だに記憶しているのが、1997年に大河ドラマで毛利元就が主役になったときの広島の盛り上がり方は異常だった。
なぜか実家にも毛利元就の暖簾のような旗がしばらく置いてあった。
そんな毛利元就の逸話として、これまた必ず聞くのが、「三矢の訓(みつやのおしえ)」だ。
三本の矢という表現がされることも多いが、Jリーグ発足時から広島にあるサッカーチームのサンフレッチェの名称はここから来ている。
日本語で数字の3(さん)とイタリア語で矢を意味するフレッチェとの造語でサンフレッチェと命名されていることは案外知られていない。
ということで、今回はあまりスポットを浴びることのない毛利元就についてまとめていこう。
今さら聞けない毛利元就ってだぁれ?
タイトルにしたとおり、戦国時代に10ヶ国120万石を支配し、中国地方の覇者となった毛利元就。
戦国大名には成り上がりが多い印象だが、実は毛利氏のルーツは名門で、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣の大江広元の子孫が毛利姓を名乗っていたという。
そして、現在の広島県安芸高田市吉田町付近に移住してきたのが、毛利家の始まりだといわれている。
ただし、毛利元就が家督を継いだ当初は、郡山城を拠点に安芸国吉田荘(あきのくによしだのしょう)一帯を支配する国人と呼ばれる小領主にすぎなかった。
当時の中国地方は、日本海に近い山陰方面を支配する尼子氏と、瀬戸内海側の山陽から九州北部までを支配する大内氏が勢力を競い合ってた。
毛利家をはじめとする安芸国、備後国の小領主たちは、尼子領と大内領の間に挟まれ、どちらにつけば自らの領地を守れるか、常に厳しい選択を迫られていたのが実態だ。
そんな中、大内氏と手を組んだ元就は、1540年(天文9年)に尼子氏から攻撃を受けるが、居城であった郡山城に立て籠もり応戦する。
その上、大内氏の援軍も得て尼子氏を撃退するという武功が知れ渡っていき、勢力を拡大していく。
勢力拡大に伴い、毛利元就ががとったのが、養子戦略だ。
まず、瀬戸内海に強力な水軍を持っていた小早川氏に三男の隆景を、そして安芸の石見を拠点にしていた吉川氏へ次男の元春を養子として送り込む。
こうして家を継がせ、山陽および山陰方面への足場を固めていくのである。
その結果、10ヶ国120万石を支配するに至るのは上述したとおりだ。
戦国時代の豆知識
ちなみに、戦国時代に置いて1万石という単位が用いられるが、どういう単位なのか、いまいちピンとこないという人も多いだろう。
1石とは、1年に大人が食べる米の量を収穫できるだけの土地の広さという単位でかつては用いられていた単位だ。
つまり、1万石ということは、1年に1万人の大人が食べる米の量を収穫できる土地の広さということになる。
そして、大人が1日に食べる米の量が収穫出来る土地の広さが1坪の水田とされた。
これをベースに算出すると、1坪は約3.3㎡で、陰暦の1年は354日なので、1,168.2㎡が1石の土地ということになる。
ということは、1万石となると1,168万2千㎡ = 11.682k㎡ということで、集約すると3.4km四方の正方形の土地が1万石の広さということだ。
120万石といえば、これの120倍ということなので、どれほど広大な土地を支配していたのががわかるだろう。
参考までに戦国時代の武将たちが支配していた土地だが、武田信玄が130万石、北条氏康が150万石といわれている。
また、1万石の領地でも大名として名を連ねている武将たちは多々いたことも併せて覚えておくといいだろう。
毛利元就の半生
話を毛利元就に戻して、どんな生涯だったのかをより深堀りしていこう。
毛利元就は、1497年(明応6年)に生まれた。
父は安芸国の国人領主である、毛利弘元(もうり ひろもと)で、その次男として養育される。
毛利元就の生まれた時代は、1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱を発端に幕を開けた、いわゆる戦国時代だ。
そんな毛利元就は、戦国時代の中でもやや初期の生まれで、同年代には斎藤道三などがいる。
そして、くり返しになるが、現在の広島県に当たるエリアは、安芸国と備後国の2つの国が存在していた。
その地には、毛利家のような小領主が複数存在している状態だった。
その周りを囲むように勢力を誇っていたのが、九州北部から山陽にかけて力を持っていた大名の大内氏、そして山陰を牛耳っていた大名の尼子氏だ。
また、安芸、備後の小領主たちは、生き残りを賭けて大内氏につくか、尼子氏につくか不安定な状態だったのも上述したとおりだ。
毛利氏が従属していたのが大内氏だったが、室町幕府派、反室町幕府の巨大な2つの勢力争いにも巻き込まれるという時代だった。
こうした中で、毛利元就の父である毛利弘元は隠居を決意する。
家督を嫡男の毛利興元(もうり おきもと)に譲って、まだ幼い毛利元就と共に、鈴尾城から多治比猿掛城へ居を移した。
その後、1501年(明応10年)、毛利元就が4歳のときに母が死去すると、続いて1506年(永正3年)、毛利元就が10歳のときに父も酒毒で死去。
家臣に家禄を横領され、さらには城までも奪われた毛利元就は、そのまま城を追い出されて孤児となり、乞食若様(こじきわかさま)と呼ばれるほど貧しい生活を送るはめになってしまう。
そんな毛利元就を不憫に思った父の継室である、杉大方(すぎのおおかた)に引き取られ養育される。
27歳のときに訪れた転機
養母の杉大方の下、青年に成長した毛利元就は、1511年(永正8年)に元服を終える。
実際に元就の名を使いだしたのはこの頃だといわれている。
そして、毛利元就が19歳の頃に、兄の毛利興元も酒毒で急逝すると、毛利家当主は、短期間の内に次々と代替わりをくり返していたことを逆手に取った勢力が攻めてくる。
そこで、毛利元就の初陣となる有田中井手の戦いに駆り出すことになるのだが、そこで大勝利を収める。
その後も、毛利元就は後見役として尽くし、大内氏から尼子氏へ従属先を変えたり戦に出向いたりなど、毛利家存続のために奮闘すると、27歳にして毛利家の家督を継ぐことになる。
家督相続から2年後の1525年(大永5年)、毛利元就は大内義隆の傘下に入ることを明言する。
1529年(享禄2年)には、安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れ、1535年(天文4年)には、隣国である備後の多賀山城を攻めて降伏させた。
こうして、事実上、安芸、備後、石見の盟主という地位を手に入れたのである。
毛利元就が重視した一致団結
ここで冒頭の話に戻るが、毛利元就といえば、三矢の訓(みつやのおしえ)という逸話が有名だ。
要約すると、一致団結ということになるのだが、この考え方が毛利元就の根本にある。
三矢の訓とは、三本の矢という逸話と同じで、そこそこ有名なので知っている人も多いのではないだろうか。
あるとき、毛利元就は毛利隆元、毛利元春、毛利隆景の3兄弟を呼び寄せると、1本の矢を折るように命じました。
すると、矢はあっさりと折れてしまう。
次に、毛利元就は3兄弟に3本の矢束を折るように命じた。
今度は誰も折ることができなかった。
このことから、毛利元就は1本の矢ではもろくても、3本の矢として束になれば頑丈になるという教えを3兄弟に説いたのである。
もう1つ、毛利元就にまつわる逸話として、百万一心がある。
百万一心の逸話が生まれたのは、毛利家の居城である吉田郡山城の改修工事が行なわれた、1524年(大永4年)頃のことだ。
安芸の領民は、工事が上手くいくようにと神様にお願いするために、娘を人柱にしようとした。
ところが、毛利元就は娘の代わりに石柱を埋めるように命じた。
この石柱に刻まれていたのが、百万一心という文字で、縦に読むと、一日一力一心と読めるように刻まれている。
娘の命を奪わなくても、1日1日を1人1人が心を1つにして働けば、城の工事は必ず上手くいくと、毛利元就は人々に訴えたのである。
まとめ
ここまで読んでくれたら、最初は全く興味のなかった毛利元就という人物のことも少しは興味を持ってもらえたのではないだろうか。
そして、毛利元就に興味を持ってもらえたのであれば、必然的に広島にも興味を持ってくれることになるはずだ。
広島に来たいと思ってくれた人がいたのであれば、お気軽に連絡いただければ、アテンドを引き受けたいと思う。
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