古琴之友(こきんのとも)
→ 自分のことをよく理解してくれる友人のこと。
自分のことをよく理解してくれる友人など、本当に存在するのだろうか。
これも何度も書いているが、私は友人と呼べる人が極端に少ない。
なので、自分のことをよく理解してくれる友人と言われても、いまいちピンとこないのが現状だ。
というよりも、まずやらなければいけないことがあるように思っている。
相手のことよりもまずは自分のこと
自己紹介をするように促されたとしたら、あなたは自分のことをどのくらい説明できるだろうか。
これは一見、簡単そうに思えるかもしれないが、意外とできない人が多い。
それはなぜなのか。
その理由は、至って簡単で自分自身を分析できている人が少ないからである。
つまり、自分自身を理解している人が少ないということだ。
そんなに大したことはないように思えるかもしれないが、実はこれは結構致命的だと私は思っている。
というのも、自分自身を俯瞰で見ることができないような人が人のことを理解することや物事を分析することなどできるはずがないからである。
そして、自分自身のことを理解していないということは、ただただ生きているだけということとイコールだということだ。
これは本当に大切なことで、将来なにをしたいかという教育にも繋がる部分だと思っている。
相手のことを考えること、相手のためを想うことは確かに重要だ。
けれども、それをする前に、まずは自分自身のことをもっと知る、理解することができなければいけないと考えている。
将来の夢や目標について
あなたも小学生のころや中学生のころに卒業文集を書いたはずだ。
そこには、将来の夢や目標を書くことが定番で、スラスラと書ける人ももちろんいただろうが、なかなか書けなかった人も少なからずいるはずだ。
かくいう私も、後者の人間でなにを書いたか覚えていないくらいの記憶しかない。
そもそも、将来の夢や目標すら書いていない気もするが、小学校や中学校の卒業時になりたいものややりたいことが全くなかったことはしっかりと記憶している。
私には物理学の教授という立場で家族を養い最前線を退いた父親がいる。
そんなに将来のことについて語った覚えはないのだが、私の父は小学生のころには、科学者や研究者になりたいという夢があったそうだ。
実際、その夢や目標を達成して、自分のやりたいことを仕事にしていた父親は幸せだったと思う。
それよりも、小学校のころには科学者や研究者になりたいという夢や目標が明確にあったことが、単純にスゴいと思った記憶がある。
というのも、私は大学を出るまで自分のやりたいことは漠然としていたからである。
いや、大学を出てからも自分のやりたいことがなんなのか、未だにハッキリとしていない部分があるかもしれない。
でも、そんな人は世の中にたくさんいるのではないだろうか。
改めて、あなたには夢や目標があるかと問われたら、しっかりと答えることができるだろうか。
自分自身を理解および分析すること
私には夢や目標が長らくなかった。
けれども、それが自分自身を理解すること、分析することに繋がったのかもしれない。
どういうことかというと、自分ができることはなんなのか、自分の得意なことはなんなのか、反対に自分ができないことはなんなのか、自分の苦手はものはなんなのかといったことを把握する必要があった。
というのも、どんな仕事をするのか、なにで稼いでいくのかを決める必要があった。
けれども、自分のやりたくないことはしたくないという変な尖り方もしていたので、自己分析をすることから始めるしかなかった。
ここで大切なことが、周りからの見た感じと自分が思っていることには、案外乖離があるということだ。
明るいとか社交的だと周りが思っている人は実はそんなことなかったり、ガサツだと思っていた人が逆に繊細だったり、逆もまた然りだったりする。
つまり、周りの評価というのはいい加減なことも多い。
それほどまでに実は他人は自分に興味がないのである。
だからこそ、自分自身のことは自分自身でしっかりと把握しておかなければならない。
幸か不幸か、私の場合には夢や目標がなかなか見つからなかったからこそ、自分自身を俯瞰で見るような癖をつけ始めたことが良かったのかもしれない。
そして、そんな風に自分を見るようになったのは、大学を卒業するあたりからだったように思う。
自分を俯瞰で見る方法
そんな私が心がけたことは、自分の得意分野と苦手分野を明確に分けることだった。
それから、苦手分野については克服しようという考え方をしなくなった。
そもそも、最短ルートで効率よく達成するためにはどうすればいいのかは深く考えることはなくても、サラッとそうできるタイプだった。
要するに、要領のいいタイプだったのだが、それだけでは再現性がない。
そこで、徹底して自分がやるべきことというかできることとやりたいことをリンクさせることから始めた。
とはいえ、そんなに簡単にやりたいことが見つかるはずもなく、興味があることはとにかく試すことにした。
そして、興味が湧いたことに対して集中してやってみるのだが、ある程度やったところで成果が出なければ、すぐに次にいく感じだ。
一定の納期というか時間を決めて、そこまでに達成できなければ、なぜできなかったのか、どこで躓いたのかを分析した。
そんな生活をくり返していくと、自分の得意分野と苦手分野がハッキリしてくる。
得意分野とは、つまり好きなこととほぼほぼイコールなので、それなら継続ができることにも気がついた。
自分自身が盛り上がるところはどこなのか、モチベーションが高くなるところはどこなのか、インプットとアウトプットをくり返した。
そうやって、植田 振一郎(ウエダ シンイチロウ)という理想の人物像をつくりだしているイメージだ。
第三者として見ている不思議な感覚
この話をたまに人前ですると、ポカンとされることがほとんどなのだが、私には不思議な感覚になることがある。
それは、打合せや会食の場面で自分が話をしているのだが、どこか他人が話をしていて、私ではない第三者として私が話をしている姿を見ている感覚になることである。
わかりやすくいうと、幽体離脱した私が私が打合せ相手や会食相手に話しかけている姿を見ているという感覚だ。
そして、幽体離脱した私と書いたが、それが私なのか私ではないのかがよくわからないという、なんともいえない不思議な感覚だ。
そんな私を見て、あぁ〜、私はこんな感じで話をしているんだと思うのである。
それは、stak, Inc. のCEOとしてピッチに出ているときにも、しばしばある感覚だ。
そこでは、盛り上がっている姿を見て自信をつけるところもある反面、もちろん反省点もある。
いずれにせよ、ときどき自分が自分でないような不思議な感覚になることがあるのだが、理解してもらえる人はいるだろうか。
この感覚はいつくらいからだろうか。
おそらく社会人として働き始めたくらいからのような気がするが、未だに不定期で様々な場面で訪れる。
まとめ
人のことを理解しようとすることは、そんなに簡単ではない。
自分自身のこともよくわからないのに、他人のことがわかるはずがないというのは、書いてきたとおりなので理解できるだろう。
そんなことが簡単にできれば、誰でもビジネスで成功することができるはずだ。
というのも、相手のことを理解すること、分析することが現代でいうところのマーケティングやブランディングに当てはまるからである。
そこには、人間の心理が大きく影響する部分でもあるし、トレンドにも大きく左右される。
だからこそ、楽しいともいえるのだが、私にはそれが人間を攻略するゲームのような感覚もある。
考えてみて欲しい。
世の中になかったもので、自分や自分の仲間たちと一緒に考えて世の中に出したものが受け入れられたとしたら、その達成感はひとしおだろう。
その瞬間に少しでも多く出会うためには、理解すること、分析することが非常に重要になるわけだ。
とどのつまり、自分自身を理解し分析し、他人も理解し分析するということである。
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