高論卓説(こうろんたくせつ)
→ レベルの高い議論、優れた意見のたとえ。
レベルの高い議論をするときは、とても楽しい気持ちになる。
自分の意見をしっかりと伝えられる場面というのは案外少ないものだ。
一方で、打合せを希望してきたのはこっちではないのに相手が本気でなかったりすると、本当に迷惑でしかないのだが、そういう人があまりにも多すぎる。
つい先日もそんな打合せに遭遇したのだが、なぜそんなことが起きるのだろうか。
改めて私の意見を述べさせてもらおうと思う。
仕事ではなく作業をしている社会人
私が社会人になったタイミングは少々遅くて、23歳になる頃だったと思う。
大学を卒業する前に行われる就職活動という行事に馴染めず、弁理士試験に挑戦しようとしたことは、何度か書いているのでご存知の人もいるだろう。
そんな私が初めて組織の中で働くことになった、つまり社会人になったのが、23歳になる頃だったということだ。
これも何度か書いているが、今や貸会議室業界の最大手となり、その地位を絶対的なものにしている、株式会社TKP(ティーケーピー)という企業に入社した。
今でいうところのスタートアップ、まあ、ベンチャー企業と同義だと捉えてもらえればいい。
そこで学んだことと、今に活きていることについては、以前書いているので、お時間ある人はこちらも読んでいただきたい。
この中にも同じことを書いているが、この一言は本当にインパクトが強くて今でも鮮明に残っているので、再掲しておこう。
世の中の大半の人がやっているのは仕事ではなくて作業なんだよね
言葉を選ばずに主張させてもらうならば、世の中で仕事をしている大人はほとんどいない。
この現状に社会人になって割とはやくに気づかされた。
一見、働いているように見えるけれども、全然力のない大人ばかりだと思ったというわけだ。
そして、このことは別にショックではなく、むしろ世の中はこんなものなのかと楽観視した。
というのも、こんなできない大人ばかりであれば、すぐに力を見せつけることができるというか、自分自身の価値を上げることはできると思ったのである。
仕事と作業の定義
改めて、私の中に落とし込んでいる、仕事と作業の定義を書いておく。
- 仕事:自分でつくりだすもの
- 作業:言われたことをすること
シンプルだが、この定義に集約されると思っている。
それから、ちゃんと仕事をしている人はレベルの高い議論ができる人だ。
すなわち、優れた意見が出せる人だということになる。
冒頭に書いたが、こういった人たちとの打合せは、とても面白いということだ。
反対に作業しかできない人との打合せは退屈だし、この人はなぜ打合せにいるのだろうと疑問しかない。
私は仕事がしたい。
そして、私と仕事をしたいと思ってくれている人に対しては全力で応えたい。
だからこそ、私の声が届くまで何回もしっかりと主張させてもらおうと思う。
仕事ができない人について
ということで、あえて強烈な言葉を浴びさせてもらうが、仕事ができない人の特徴を挙げさせてもらう。
下記の中から1つでも当てはまる事項があった人は要注意だ。
あなたは仕事をしていない人、つまり、仕事ができない人である可能性が高い。
様々な場面でそれを感じることがあるのだが、全て挙げるのではキリがないので、打合せの場面に限定させてもらう。
- 打合せの事前準備をなにもしていない
- 会社や組織のせいにする
- 打合せで一度も発言しないことが多い
- 議事録がまともに取れない
- 納期を決められない
他にもたくさんあるのだが、共通していえることは、時間を無駄に使っているということだ。
これも何度もくり返し言っているが、人生において最もプライオリティの高いものは時間だ。
仕事ができない人に共通していえることは、そんな貴重な相手の時間をいたずらに奪っているということだ。
なによりも、貴重な相手の時間を奪っていることに対する罪悪感がないことがたちが悪い。
このことを言われて少しでも思い当たる節がある人は、今すぐに改善した方がいい。
すぐに変えることはできなくても、常に意識することで必ず改善できる。
議論することの大切さ
よく、日本人は議論が苦手とかディベートが下手くそだといわれる。
確かにそれはあると思うのだが、具体的にどういったところがそう感じるのかを書いていこうと思う。
私は打合せをするときには、相手ができるだけ無駄な時間を私や私の周りのスタッフに割くことがないように最善の注意を払う。
そこでは、下手に忖度をする必要もないと思うので、はっきりと物事を言うタイプだ。
ただ、こういった態度がしばしば怒っていると捉えられることがある。
あるいは、とても感じの悪い人だと思われてしまうことがある。
このあたりがまさに大きくギャップを感じるところで、お互いの探っている状態の時間が本当に無駄でしかないと思ってしまうのだが、本当にそういう人が多い。
私からすると、冒頭でも述べたとおり、打合せの日時が決まっているのに、なにも準備せずにその席にいる人の理解ができない。
ましてや、その打合せの担当者というか責任者という立場の人間が、そもそもなんの打合せでしたっけ?みたいな顔をしていることもある。
百歩譲って、こちらから打合せを要望したのであれば理解できるが、そうではない場合には驚きをとおり越して呆れることすらある。
その言い訳が、上述した箇条書きに集約されているイメージだ。
はっきり言おう。
こういう人たちが仕事ができない人で、そもそも議論が苦手とか、ディベートが下手くそだというレベルに達していないということを主張したい。
議論することの大切さは、最低限のマナー的な部分があってからこそ成り立つわけで、まずは議論できるレイヤーまで来てもらいたい。
それが私の主張である。
清々しさを生む議論
見る人からすると喧嘩しているように見えるような激しい議論でも、レベルの高い議論だと、終わってみると清々しさが生まれる。
それは、自分の意見ばかりを押しとおすことを求めていないからである。
どこかで自分以外の意見やアドバイス的なものを吸収しようとしている姿勢の人は、レベルの高い議論ができる人だ。
当たり前だが、その対象は年上とか年下、性別、国籍を問わない。
どんな状況であってもフラットに考えられる人は案外少ない。
私も感情的になりやすいタイプの人間なのでよくわかるが、つい自分の意見ばかりを話してしまうこともある。
相手のこともしっかり聞くことができなければ、やはりフェアではない。
私自身にも言い聞かせたいところだが、聞くという能力は意外と大切で、その上で自分の意見もしっかりと伝えることを意識しないとダメだ。
議論が終わった後には清々しさが残ることが重要で、結果として建設的に物事が前に進んでいかなければ、そもそも議論する意味がない。
それは個人的な部分のみならず、チームや相手の組織全体に波及することもある。
一対一の場面だけでなく、チーム内全体、あるいは相手の組織すら巻き込めるような議論というのが最高型だということだ。
まとめ
一度しかない人生を後悔なく生きていくためにとても重要なことなので、何度もくり返し書いておこう。
あなたはしっかりと仕事をしているか、胸に手を当てて考えて欲しい。
しっかりと仕事をしていると思っている人であっても、あなたにとっての仕事とはなにか明確に答えられるだろうか。
もし、その回答に躊躇がある場合、あなたがしているのは仕事ではなく、作業である可能性が高い。
別にそれが悪いことだとはいわないが、そういう人は往々にして仕事ができない側の人である可能性も高い傾向がある。
そういわれたときに嬉しい人などいないだろう。
やはり、仕事ができるといわれたいはずだ。
そのために意識することは時間の使い方で、相手のことをどこまで考えているのかも重要になる。
そして、議論が苦手とかディベートが下手だと自分自身が感じていたり、周りから思われている場合には、そもそもレベルが低すぎるというか議論、ディベートができる領域に達していない可能性が高い。
ボロカスに主張しているが、もちろん私自身にも当てはまる部分はある。
こうやって主張することで、自分自身もしっかりと戒めているのである。
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