洽覧深識(こうらんしんしき)
→ 見聞が広く知識も深く豊富なこと。
見聞が広く、知識も深く豊富な人は世の中にたくさんいる。
私もそちら側の人として受け入れてもらえることがしばしばあるのだが、嬉しい限りだ。
物知りですねと評価されてイヤな気分になる人はいないだろうということだ。
ただ、年月を重ねていくと、物知りだと思わせるテクニックのようなものがあることにも気づいている。
これを知っている人と知らない人では、大きく差がつくと思うので、今回はそこについて書いていこうと思う。
見聞が広く知識が深い人
まず、見聞が広い人、あるいは知識が深い人という定義はどういったものだろうか。
もちろん、人によって異なるだろうが、教育者と呼ばれる立場の人が本来はそのポジションを独占しないといけないと私は考えている。
けれども、小学校から大学まで教育機関と呼ばれるところでの教育を一通り受けてきたが、そんな教育者には1人も出会ったことがない。
このことがそもそも問題なのだが、やはり見聞が広くて、知識が深い人は経営者に多いと思う。
1つのことに関しての知識の深さは、士業を生業としている専門家や大学の期間などで研究している教授たちに敵わないかもしれない。
けれども、なぜそれを経営者は凌駕するのだろうか。
否、経営者の中でもオーナー社長、つまり創業者という立場を経験した人に限るとさせてもらおう。
その答えは明確で、己の経験が資産となっているからである。
つまり、見聞の広さや知識の深さは、自分自身の経験値に比例するという主張を私はしている。
なぜ日本の教育はつまらないのか?
では、これも散々テーマにしてきていていることだが、日本の教育のあり方についての批判だ。
なぜこの教育というテーマに関してうるさいかといえば、私の両親が教育者という立場だったからというのが大きい。
それが故に普通の人は経験しなかったような辛酸を嘗めるような経験もしたし、自分自身を含めて周りを俯瞰で見るという能力が備わったとも思っている。
結論からいうと、日本の教育がつまらないのは、教育者である先生の能力が低すぎるからである。
勘違いして欲しくないのだが、私が指摘しているのは、見聞が広くないとか深い知識がないことを能力が低すぎると指摘しているわけではない。
単純に教え方が下手くそだということを声を大にして言い続けている。
能力の低い教育者は、難しいことを難しく教える。
そこにはきっと己の穿ったプライドのようなものも含まれていて、力を見せつけたいのか知らないが、簡単にいうと話がつまらない。
だから、誰も聞こうとしないし眠たくなる。
大切なところなので、くり返し書いておこう。
日本の教育レベルが低いのは、教育者である先生という立場の人の教えるという能力が低すぎるからである。
なぜ教育者である先生の教え方が下手くそなのか?
せっかくなので、もう少し深堀りしていこう。
それでは、なぜ教育者と呼ばれる先生の教え方が下手くそなのか。
これについても、私の中では明確に答えが出ていて、経験値が少なすぎるからである。
何度も同じような主張をしているので、またかと飽きている人もいるかもしれないが、その例として挙げるのが、進路相談の場面だ。
小学校、中学校と義務教育を終えると、高校に進学するのか、就職するのかといった進路相談の機会が訪れる。
あるいは、高校や専門学校を卒業するときにも、大学に進学するのか、就職するのかといった進路相談の機会が訪れる。
そのときに様々な会話が行われるわけだが、私は当時から疑問を思っていた。
それは、なぜ先生しかやったことがない人が、その人の進路についての相談役としてアドバイスができるのだろうかということだ。
はっきり言って、先生ほど世間知らずで狭い世界で生きている職業はない。
それなのに、なぜその人の人生を大きく左右されるほどの指導ができるのだろうか。
先生の立場の人、先生に相談する側の人のいずれもが、少し考えれば疑問しかないことなのに素通りしてベルトコンベア式に進めていくことが問題なのである。
もう1つ、大切なことを見逃している。
大人になってなぜ学校では教えてくれなかったのだろうと疑問に思う場面がないだろうか。
例えば、みんなが大好きな、お金や投資というジャンルについてだ。
この分野については、若いうちから知っておくべきことなのに学校で全く教えられることはない。
それはなぜか。
これも答えは簡単で、学校の先生レベルに教えられるわけがないからだ。
そもそも、先生が知らないことをどうやって教えることができるのだろうか。
なにもこれは別に先生という職業を否定しているわけではない。
私を含めてだが、あなた自身は全ての科目が得意だったかということを胸に手を当てて考えて欲しい。
そんな万能なスーパーマンは世の中にはいない。
得意な科目があれば苦手な科目もあるはずだ。
それなのに未だに日本の小学校教育では、基本的に1人の先生が全てを教えるというのがスタンダードだ。
あなたは、自分が苦手な科目を楽しく教えることなどできるだろうか。
だから私は、もっと子どもたちが小さなうちから専門的な人たちを教育者として接することを推奨している。
それが無理でも、小学校や中学校の特別授業として、様々なタイプの経営者を招いて授業をするといった施策は必ずすべきだと主張し続けている。
見聞が広く知識が深いと感じさせてくれる人
ここまで書けば、もはや惰性になってしまうが、今一度、どういった人が見聞が広い、深い知識を持っていると感じさせてくれるかを考えて欲しい。
それは、話が面白い人だ。
それでは、どういった人が話が面白い人なのか。
それも答えはシンプルで、わかりやすく説明してくれる人だ。
だからこそ、同時に私はインプットとアウトプットの大切さを説いている。
せっかくインプットした見聞や知識を誰もがわかるように、小学生でもわかるようにアウトプットできなければ、その見聞や知識は死んでいるも同然なのである。
そして、話が面白い人は様々な経験を積んでいる人だということも忘れてはいけない。
全ての創業を経験している経営者が優秀だとはいわないし、変わった人も多いけれども、やはり多くの経験を積んでいる経営者の話は面白い。
当然といえば当然なのだが、そこには嘘や偽りがなく、リアルを感じられるからである。
あなたの話に誰も耳を傾けてくれないと感じることがあるのであれば、それは圧倒的に経験値が低く、あなた自身の会話がつまらないからだと認識した方がいい。
まとめ
僭越ながら、私はどんな状況にポンと投げ出されても、その場でそれなりに話を盛り上げることはできると思う。
それは、私なりの経験から会話におけるテクニックがいくつかあるからである。
自分自身の主張であっても、あたかも著名人や第三者の話のようにすり替えることもあるし、逆もまた然りだ。
そして、ハッタリと嘘の狭間で日々過ごしているからかもしれない。
そんな私に対して、見方によってはズルいとか大したことがないと捉える人も少なからずいると思う。
ただ、それでいいのである。
トーク力を鍛えるというよりも、私はアドリブ力という言葉をよく使う。
それは、どんな状況であっても自分の考えや意見をしっかり述べられないと価値がないのと同等だし、なによりもサービス精神がなさすぎる。
相手がわざわざ人生の貴重な時間を割いてくれているのに、そこになんのお土産もないのでは、あまりにも失礼だというマインドが私には備わっているように思う。
もちろん、必ず相手を満足させているといったことはないとは思うが、そういったマインドが備わっている人とそうではない人の話は圧倒的に面白さが違うはずだ。
ということで、私、植田 振一郎は案外プレゼン能力の高い人間だと売り込んでおこう。
いろんな場面でプレゼンをしてきたし、授業をしたことだってある。
stak, Inc. の売り込みも当然させていただくが、そんな植田 振一郎の授業をさせてもいいよという教育機関があれば、喜んで行くのでお気軽に連絡をいただきたい。
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