紅毛碧眼(こうもうへきがん)
→ 西洋人のこと。
その字のとおりだが、紅い髪の毛、碧い目の意味で西洋人の象徴を言葉にしたものだ。
そして、紅毛は江戸時代にオランダ人についての呼称で、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼んだのに対する呼称だ。
ご存知のとおり、江戸時代は鎖国をしていたのだが、一部の場所では外交が行われていた。
有名なのが、南蛮貿易や朱印船貿易だが、私の好きな日本の戦国時代にスポットを当ててみよう。
世界の大航海時代に最速で直面した大名
日本史でいうこところの戦国時代は、世界史でいうところの大航海時代とリンクする。
そんな戦国時代に、世界の大航海時代に最速で直面した大名は、薩摩(鹿児島県)の島津貴久だ。
島津貴久は島津義久の父にあたり、1543年に勢力下にある種子島に鉄砲が伝来した史実は多くの人が日本史の授業で学び、記憶にも残っているはずだ。
その後、1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のために薩摩人のヤジローに案内されてやってきたという史実もほとんどの人が日本史で学んだはずだ。
ただ、島津貴久ははキリスト教の布教には乗り気ではなかった。
そこで、ザビエルが頼ったのが、周防(山口県)の大内義隆だった。
イエズス会を支援するポルトガルの狙いは、大内家の領内の石見銀山で産出する銀だったので、キリスト教を布教することによって大内家に食い込もうとしたのである。
大内義隆は布教を許し、日本で初めて山口に教会が建てられた。
ところが、やがて石見銀山を狙って侵攻してきた尼子晴久に圧迫され、毛利元就らの離反によって大内家は滅亡した。
この状況の変化に、ザビエルは豊後(大分県)の大友宗麟を頼り、府内(大分市)を拠点にして南蛮貿易を始めるきっかけをつくった。
大友家が九州の6ヶ国を領する大名に成長することができたのは、他でもないこの南蛮貿易の恩恵を受けたからだといえる。
鉄砲伝来や南蛮貿易の真の理解者
確かに大友家は九州で成長し莫大な資産と影響力を身に着けたことは間違いない。
けれども、鉄砲伝来や南蛮貿易の重要性を最も理解した人物は他にいる。
この外国との繋がりを天下統一の礎となる事業にまで結びつけたのは、紛れもなく織田信長である。
国友鉄砲記によれば、織田信長は鉄砲伝来の6年後に鉄砲500挺を国友村に発注している。
鉄砲伝来からわずか6年で、国友村がそれほどの生産力を確立できたのかという疑問はあるだろう。
とはいえ、織田信長は1554年(天文23年)の村木砦での今川家との戦いで鉄砲を用い、自ら銃撃して砦を1日で攻め落としている史実がある。
このことを併せて考えれるのであれば、鉄砲を500挺発注したということも信用できるのではないだろうか。
スペインの戦法を取り入れた織田信長
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのは、それから6年後の1560年である。
織田勢は鉄砲を数多く装備し、その威力によって10倍近い今川勢を大敗させたはずだが、明治32年に陸軍の参謀本部が編纂した、日本戦史 桶狭間役には鉄砲使用のことは記されていない。
では、どうして織田信長は10倍の兵がいる今川義元に勝つことだできたのだろうか。
その謎を解きかねた参謀たちは、織田信長は谷間の道で長蛇の行軍をしている今川義元の本陣を、迂回作戦を用いて奇襲したのだと考えた。
その説が陸軍士官学校の教材に採用されたために、日本軍はインパール作戦などの迂回、奇襲作戦を多用するようになったといわれている。
ところが、これが完全な誤りであることは、信長公記を精読すれば明らかである。
信長は中嶋砦から出陣すると、今川勢と真っ正面から戦い、水をまくるがごとく敵を押し返して圧倒的な勝利を収めている。
通常ではあり得ないこの勝利をものにできた謎を解く鍵は、鉄砲を用いた織田信長の新しい戦法にあった。
織田信長は戦いに大量の鉄砲を使用し、3間半(約6.2メートル)の長槍を併用した戦法で今川勢を圧倒したのである。
そして、実はこの戦法はスペイン陸軍のテルシオ戦法からヒントを得たものだった。
テルシオとは、パイク兵と呼ばれる長槍部隊に方形の陣形を組ませ、その中にマスケット(火縄)銃隊を入れた隊形のことをいう。
このマスケット銃の最大の弱点は弾込めに時間がかかることである。
この弾込めしている間、守るために、6メートル以上もある長槍で槍衾(やりぶすま)を作り、敵の騎馬や歩兵を防いでいる間に弾込めをするという戦法をとった。
このテルシオ戦法をポルトガル人から教えられた織田信長は、今川勢を桶狭間の細い道に誘い出すと、鉄砲隊と長槍部隊を交互に使って今川勢を撃ちくずしたというわけだ。
一方で、もはや鉄砲は織田信長にだけあるものではなく、今川勢も先頭に鉄砲隊を配していた。
ただ、直前に降った大雨のために使えなくなっていた。
そんな今川勢に対して、中嶋砦にいた織田勢は鉄砲を使える状態を保っていて、雨が上がると同時に突撃した。
狭間の道は10メートルほどの幅しかなく、左右には山の斜面が迫っている。
ここで正面から鉄砲を撃ちかけられ、弾込めの間は長槍で槍衾を作られたために、今川勢は逃げ散る以外に手立てがなくなったのである。
織田家が押さえていた資産
現代社会に例えるなら、鉄砲は高級自動車といったところだろうか。
銃身は、軟鋼と鋼の二重構造になっていて、銃身の尾栓の雌ネジを切るには、タップのような工作機械を必要とする。
また、カラクリ部分に使う真鍮は当時の日本で作る技術はなかったといわれており、火薬の原料の硝石や弾にする鉛も、大半は輸入に頼っていた。
現代の自動車産業がゴムや石油の輸入なくしては成り立たないように、鉄砲の使用も南蛮貿易なくしては不可能だったというわけだ。
故に高い値段で取り引きされ、経済力のある大名でなければ買うことができなかった。
織田信長がそれを可能にした、つまり鉄砲を充分に買い入れることができたのは、織田家が父の織田信秀の頃から津島と熱田の港を押さえていたことが大きい。
伊勢湾と関東を結ぶ海運、伊勢湾から琵琶湖などに至る水運や陸運という物流網を支配していたからである。
関東、東海などから京都や大坂に向かう荷物は、伊勢湾の港で陸揚げされ、鈴鹿峠や中山道を通って近江に運ばれる。
港を支配していれば津料(港湾利用税)や関銭(通行税)を徴収できるので、流通や商業が盛んになるほど、織田家には莫大な金が転がり込んできた。
その実力は、織田信秀が尾張一国の軍勢を率いて美濃の斎藤道三や駿河の今川義元と戦っている史実を見れば明らかである。
ところが、織田信長の華やかさを際立たせようと、織田信秀は尾張下四郡の守護代家の三奉行の一人にすぎなかったと、いかにも弱小の家から身を起こしたように語られてきているのである。
織田信長の功績
織田信長といえば誰もが知っている戦国時代の武将だ。
ところが、父の織田信秀の物流網の構築、つまりシステムがあったからこその華やかしい史実になっている側面があることは述べたとおりだ。
つまり、物流網というシステムさえ構築してしまえば、黙っていてもお金は手に入る。
こういった背景もあって、織田信長は有能な若者たちをスカウトし、身分にとらわれることなく登用して、独自の親衛隊である、馬廻り衆をつくることにした。
こうして、いちはやく兵農分離を成し遂げ、集団での訓練を徹底して、農繁期でも戦える屈強のチームを築き上げることができた。
それでも槍、弓、刀だけでは周辺の伝統的武士団に後れをとった。
その打開策を模索していたときに、堺に南蛮人が鉄砲を伝えると、織田信長は自ら堺まで出かけた。
そして、納屋衆やポルトガル商人から鉄砲の性能や使い方、ヨーロッパでの戦術について指導を受けたというわけだ。
鉄砲伝来のわずか6年後に、国友村に500挺もの鉄砲を発注したのは、こうした背景があってのことである。
まとめ
歴史を知ることで学ぶことは多い。
そのときどきのタイミングによって、再現性はないかもしれないが、行動の仕方や考え方を学ぶことができる。
そして、そこからどのように発展していったのかというきっかけを知ることで、今すべきことや少し先を予測することが可能になる。
今回紹介した、織田信長の華やかさの裏側に織田信秀という父の築いた物流網というシステムがあったことは、現代のビジネスにも繋がるはずだ。
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