公明正大(こうめいせいだい)
→ 私心がなく、正しく立派であること。
私心がないというのは、自分の利益だけ考える心のこと、つまり私意のことをいい、この私心がないことが正しくて立派であるというのが公明正大というらしい。
いくばくか歳を重ねてきたが、本当に私心がない人など存在するのだろうか。
生きている以上は私心がなくなることなどないのではないだろうか。
もっというと、私心がある人の方がよっぽど信用できるのではないだろうか。
こう考えてしまう私は、おそらく正しく立派ではないのだろう。
けれども、なぜそう思うのか、私自身の考え方をせっかくなので述べておこう。
時代によって変化する私心
よく歳を重ねていくと私心がなくなるという表現がされる。
簡単にいうと、欲がなくなっていくということなのだが、以前の私はこの表現については肯定的に思っていた。
ところが、このロジックを肯定してしまうと、いつになるかわからないとはいえ死期が近づくに連れて私心がなくなるということになる。
これは純粋に違うと言い切れるのではないだろうか。
というのも、死期が近づいていることは基本的にはわからないと思うが、仮にわかったとしよう。
となると、ほとんどの人がその死期を遠ざけようと懇願するのではないだろうか。
少なくとも私は徹底的に抗うと思う。
どれだけ冷静に死期を迎え入れる覚悟を決めていたとしても、その直前には不安になるだろうし見苦しいほどに抗うように思う。
これは私心なのではないだろうか。
そのタイミングが10代だろうが、20代だろうが、30代だろうが、40代だろうが、50代だろうが、60代だろうが、70代だろうが、80代だろうが、90代だろうが、100歳を越えようが同様に思う。
なにが言いたいのかというと、なぜ歳を重ねると私心がなくなるという表現がされがちなのかを考えたいということだ。
結論からいうと、私心は生涯なくならず、私心は時代によって変化するということだ。
私心 = 欲望について考える
予め断っておくが、あくまで私、植田 振一郎の独自な見解であって、自分は公明正大だと断言する人もいるだろう。
そういう人たちを否定するつもりもないし、私の考え方が間違っていると罵られても全く問題ない。
そのことを大前提に書いていくが、生きている以上、私心は常に誰にでもあるということを改めて主張しておきたい。
要するに、なにかしらの欲望は死ぬまで誰にでもあるということで、それは歳を重ねて世間からおじいちゃん、おばあちゃんと言われるようになってからもだということだ。
一見すると、おじいちゃん、おばあちゃんには私心 = 欲望がないと思っている人が大半だと思う。
けれども、決してそんなことはなく、ただただ生きているタイミングによって、私心 = 欲望が変化していくというのが私の見解である。
10代〜20代半ばの植田 振一郎
わかりやすく、自分自身の私心 = 欲望を時代別にわけて分析していこう。
10代〜20代の植田 振一郎(うえだ しんいちろう)は、多くの人となんら変わらない私心 = 欲望を持っていた。
それは、お金持ちになりたい、いいモノを身に着けたい、異性にモテたいといった本当にベタ中のベタなものだったと思う。
これも先に答えを出してしまうが、この時代の私心 = 欲望が、一般的な私心 = 欲望になっているということだ。
どういうことかというと、若いころに抱いていいた私心 = 欲望が生涯のものになっているということである。
30代になっても、40代になっても、もっと歳を重ねても10代〜20代の私心 = 欲望が変わらずにあるものだということが大前提とされているということだ。
少し考えれば当たり前なのだが、10代〜20代半ばに抱いていた私心 = 欲望が生涯続くはずがないのである。
例えば、10代〜20代半ばにかけて、とてもいい時計を身に着けたいと思っていたとしよう。
それが、80代や90代になっても同じように私心 = 欲望として残り続けるかということだ。
もちろん、私自身がその年齢に達していないのでわからないが、限りなくそんな私心 = 欲望はないといえるはずだ。
一方で、だからといって、80代や90代に私心 = 欲望がないのかということだ。
とてもいい時計を身に着けたいという私心 = 欲望はなくても、新たな私心 = 欲望はきっとあるはずだと述べているのだ。
私がその歳まで生きていられるとしたら、なにかしらの私心 = 欲望はあると思う。
その多くは健康で少しでも長く生きたいというものだろうが、それも立派な私心 = 欲望だということだ。
私心がないことは本当に正しく立派なのか?
それでは、タイトルの投げかけに戻るが、なぜ私心がないことが正しく立派であるという四字熟語まであるのだろうか。
その理由は、それすらが私心 = 欲望なのではないだろうかという持論を展開しておきたい。
人として私心がなくなることができれば、正しく立派だと思い込みたいという、それこそが私心 = 欲望であることの戒めに近い表現だと考えている。
つまり、若いころに抱いていた私心 = 欲望を歳を重ねていくうちに克服して、どこか自分自身が生きてきたことに対する価値を見出そうと納得できる場所を探しているということだ。
そうなったときに、若かりしころに抱いた、お金持ちになりたい、いいモノを身に着けたい、異性にモテたいといったわかりやすく否定しやすい私心 = 欲望は克服したと思い込みたいのである。
その裏側には、新たな私心 = 欲望が出てきているにも関わらずというわけだ。
41歳以上の先輩たちを見て感じること
敬意を払うため、あえて先輩たちと書かせてもらおう。
41歳としたのは、私が先日41歳という年齢になったからで、それ以上の人たちを見ていて、あるいは接していて感じる部分について書いていこうと思うということだ。
これも、先に言いたいことを書いてしまうが、はっきり言って先輩たちの方が欲にまみれているというか、完全に老害の域に達している人が圧倒的に多い。
なによりもたちが悪いのが、この老害の領域に入っていることに気がついていないということだ。
これは私も含めてだが、最近の若い人の考え方や行動が理解できないという表現は、老害の領域に足を踏み入れていることだと認識した方がいい。
俯瞰で見たときに、圧倒的に先輩たちの方が、素直でなく理不尽で考え方が凝り固まっていて、結果迷惑をかけていることが多いという指摘だ。
そして、くり返しになるが、そのことに本人が全く気がついていないということが、なによりもたちが悪い。
私も初老の域に入り、同様の発言をしたことは少なからずあるし、そう感じてしまうことも増えているように思う。
ということは、老害の領域に足を踏み入れたということだ。
老害の領域との付き合い方
歳を重ねていくと、悲しいかな老害の領域に入らざるを得ない。
けれども、悲しんでいるばかりでは、それこそ思考停止しているだけで、大切なことはその領域に足を踏み入れたことを認識した上で、どのように対応していくのかということだろう。
これもくり返しになるが、私は41歳という年齢になった以上、老害の領域に足を踏み入れている。
その意識をしっかりと持った上で、発言や行動をする必要があるというわけだ。
10代〜20代半ばに持っていたような私心 = 欲望はなくなったと断言はできるが、別の私心 = 欲望はある。
そして、その私心 = 欲望を現実にするために、老害の領域と隣り合わせの状況を楽しまなければいけない。
まとめ
私心がないことは、別に正しくもなければ立派でもない。
むしろ、私心 = 欲望がある方がよっぽど人間らしいし、私は生涯、私心 = 欲望を持っている側の人間だと思う。
そんな生き方を否定されることがないように、全力で今を生きるのみだ。
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