巧言乱徳(こうげんらんとく)
→ 巧みな言葉は人を惑わし徳を乱す。
巧みな言葉だと思っていなくても、信用して、信頼して物事を判断して実行することがある。
スタートアップのCEOという立場にいると、そんなことは日常茶飯事だ。
逆にそんな経験をしたことがないというCEOがトップだというスタートアップには価値がないといってもいいだろう。
それだけ目まぐるしく日々状況が変わるのがスタートアップの良いところでもあり悪いところでもある。
わざと知らないフリをする
巧みな言葉で人を言いくるめたと思い込んでいる人は案外多いものだ。
上手く丸め込んだとか、自分の思いどおりにいっているという勘違いは結構な人がしているというわけだ。
ただ、組織の上に立ったことがある人は、少なからずそういった言動を見抜いていると思った方がいい。
その組織が大きくなればなるほどに、ピラミッドの上に近づく人ほど、そういった浅はかな言動は見抜いている。
けれども、あからさまにその言動を否定するようなことはしない。
なぜなら、その方が組織が上手く回る可能性があるということを知っているからである。
つまり、わざと知らないフリをするというか、泳がせておくというのは組織を形成していく上での取りうる手法としては往々にして行われているというわけだ。
そもそも、組織の上に行く人ほど当然決定すべき事項が大きくなるので、末端のところまで見ることは難しくなる。
だからこそ組織にしていくわけだが、巧みな言葉であったと思ったとしても、実際はそうでもないということを知った上で日々過ごしていくことは、その人の成長にも繋がるというわけだ。
言葉と責任の表裏一体
巧みに言葉を操っているようであっても、自分より様々で大きな経験をしている人には通用しないということは上記に書いたとおりだ。
要するに浅はかな言動は簡単に見破られていることがあるということを頭の片隅に置いておいた方がいいということだが、だからといって言葉を軽んじてはいけない。
あなたが発する言葉で人が動いているという場面をきちんと想定すべきなのである。
資本力や知名度のある企業なら体力もあるので、自分たちのやりたいことに関しても十分にバジェットがあったり、使えるツールも多いのでソリューションも形成しやすいだろう。
けれども、スタートアップにおいてはそんな余裕はない。
まずは自分たちでやってみるというのが定石だが、スピードを上げていかなければ勝ち残ることはできない。
となると、外部ツールを使ったり、外部の人にアウトソーシングすることになる。
インターネットの発達により、今の時代は様々なツールが提供されているし、選択肢もそれなりにある。
きちんと選べば、自社サービスなど全くナシの状態でビジネスモデルを形成することなど、容易い時代だ。
だからといって、なんでもかんでも手当たり次第に選んでしまっていては、独自のサービスなど生まれるはずもない。
あなたは、組織をつくっていく上で、任されたことに対していい加減な返事をしたことがないだろうか。
あなたが軽はずみに発した言葉で物事が進んだとしたら、きちんと責任を取ることはできるだろうか。
言葉は思っている以上に重たい。
あなたは軽いノリで発言したかもしれないが、組織で動く以上、思ったよりも周りを巻き込んでいる可能性がある。
責任を取れないような発言は極力しない方がいい。
責任の取り方
それでは、責任の取り方とはどういったものなのだろうか。
これについては、昔から口酸っぱくいっているのだが、辞めるという選択肢を取ることで責任を取るとする人は最悪だ。
辞めることは責任を取ることではない。
ただただ逃げているだけだ。
そういう人は、どの組織に行っても大成することはないだろうし、口だけの人生を送ることになることを私は断言する。
責任を取るということは、私がいなくなったら全てが上手くいかないですよと最期までやり切ることである。
結果として、それは失敗であってもいい。
大切なことは、やり切ることなのである。
中途半端にやってしまうことは、全員が不幸になるということを認識すべきなのである。
どんな状況になっても、最期の1人になってもやり切るという気概が責任を取るということだ。
そのためにはどんな手を使ってでも成功してみせるというのが、責任を取るということでこういう言動ができる人のところに信用や信頼が積み重なっていくのである。
誤解なきように書いておくが、別に態度がいい加減そうだったり、少々コミュニケーションの取り方に難があっても最悪問題ないのである。
人間は誰しもが得意な分野と苦手な分野があるもので、万能な人などいないといってもいい。
だったら、自分の得意な領域を全力でやり切ればいいのだが、そういうときに全力を出せない人がいたら全体の士気も下がる。
そのときに往々にしてあるのが、口だけ人間の登場なのである。
そういった人間は責任を取るということが中途半端に手を出して逃げ出すという辞めるという選択肢になるわけだ。
辞められたところで、その殿を務めなければいけない人が少なからずいることが理解できていないのである。
そんな人間に信用や信頼が生まれるだろうか。
私自身にもいえることだが、今一度自分の胸に手を当て考えてみていただきたい。
組織が形成されていくフロー
私はチームビルディングという言葉よりも組織という言葉を多用する。
ほとんど意味は変わらないのだが、チームビルディングとはフェーズ毎に異なる概念だ。
詳しくは過去ブログで下記のとおり書いているので、こちらを一読してもらえればと思う。
一方で、組織というのは本当に小さな単位でも使える便利な概念だ。
3人いれば派閥が生まれるという言い回しがあるように、人は複数になった瞬間に単体での動きと別の動きをし始める。
その最小の単位が組織なのである。
そして、数百人、数千人、数万人、あるいは数十万人という人の集合体であっても組織なのである。
チームビルディングとは、その組織のあり方やつくり方を示唆していくものであって、そういう意味では根本的な概念にズレが生じるというわけだ。
組織が形成されていくのは、最初は数人でそこから一気に大きくなる場合もあれば、ずっと小さいままの状態もある。
いずれにせよ、組織という単位が共通して使用でき、そのサイズの組織でなにをやっていくのかをきちんと見極める必要があるわけだ。
組織を形成していくには、自分を最も犠牲にしなければならないことに気づけば、どんな組織でも対応できるし、自分自身の理想とする組織が見えてくる。
まとめ
言葉巧みに物事を進めていくことは非常に重要な要素であり、ある意味でリーダーシップを取る者が洗脳に似た強烈なカリスマ性があることは重要だと考えている。
ただし、重要なのはその言葉にどれだけの重みがあるのかということである。
それは態度や言い方にも現れるかもしれないが、なによりもその人の行動に最も反映される。
軽い気持ちで発した言葉が人を傷つけたり、知らないところで迷惑がかかっていることに気づけないような人がつくるサービスなど長続きするはずもない。
発言することすらしない人は論外だが、発言を求められたときに、その場しのぎで軽く発言をしたことがあるという人は要注意だ。
その場はしのげたかもしれないが、そういう積み重ねで何度も人生の山場を乗り切れるほど甘くはない。
そこに信用や信頼が生まれるはずがないからである。
そして、責任とはなんなのか、大人になればなるほどに見えなくなっている人が本当に多いと感じる。
責任という言葉を発する以上、相手のことを最大限敬うことができなければ、そこにはなんの価値もないのである。
それどころか、マイナスになるということを頭に叩き込んでおく必要がある。
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