群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)
→ 各地の武将が対立すること。
戦国時代が好きだという人は多い。
そして、今でいう推し活ではないが、戦国時代が好きだという人には、それぞれ推しの武将がいるものだ。
なにも戦国時代が特段好きという人でなくても知っている武将もいるが、第一線というよりは、軍師として活躍した武将などタイプな様々だ。
かくいう私も、戦国時代が好きだということは、何度が主張してきたと思う。
今よりも遥かに一生が短かった時代に、まさに命がけで戦っていたという史実がいくつも残っている。
というわけで、戦国時代に興味がないという人であっても、少しは興味を持ってもらえるよう、まとめてみようと思う。
戦国時代っていつのこと?
そもそも、戦国時代とはいつの時代をいうのか。
結論からいうと、明確にここからここまでという区切りはない。
一般には、1467年の応仁の乱、または1493年の明応の政変に始まったとされる。
また、豊臣秀吉が関東・奥羽に、惣無事令を発令した1587年、または豊臣秀吉が小田原城征伐で後北条氏を滅亡させて全国統一の軍事活動が終了した1590年までとされる。
あるいは、奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることもある。
そして、1568年に織田信長上洛、または1573年の織田信長による足利義昭追放で室町時代が終了し、安土桃山時代や織豊時代と称する場合もある。
つまり、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代は戦国時代でも末期で、戦国時代が好きという人のほとんどが末期に偏っているといっていい。
歴史に名を刻む人気の戦国武将
ということで、まずは日本史にも登場するような有名な戦国武将を私の主観で紹介していこう。
北条早雲(1456〜1519年)
北条早雲こと、伊勢盛時は、室町時代中後期の戦国武将である。
その諱(いみな)は、長氏や氏盛など諸説ありましたが、現在では盛時とする説が最も有力となっている。
備中国(現在の岡山県西部)出身と伝わる伊勢盛時が、北条早雲と名乗るようになったのは、後に禅に傾倒してから号した、早雲庵宗瑞が由来となっている。
北条早雲は出家後に、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)の今川家のもとで頭角を現し、堀越公方の足利茶々丸を討伐すると、伊豆国・韮山(現在の静岡県伊豆の国市)に進出する。
さらには小田原を拠点に、南関東を制覇し、関東の雄と呼ばれる北条家の礎を築いた。
斎藤道三(1494〜1556年)
斎藤道三(利政)は、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県南部)一帯を支配した、道三流斎藤家の初代当主である。
その出自は明らかにはなっていないのだが、名もなき僧侶から一介の油売りとなり、わずか十数年で身を起こして、武士へと成り上がったと伝えられている。
最終的には国主にまで登り詰めた下剋上の世界を体現している武将だったというわけだ。
美濃国の守護である土岐家の家臣に仕えていた斎藤道三だったが、土岐頼芸の弟である土岐頼満を毒殺。
土岐家に反旗を翻した結果、美濃国を手中に収めることに成功し、実の娘である濃姫を織田信長に嫁がせる。
いかなるときも権謀術数をめぐらせ、美濃の蝮(まむし)とも呼ばれたことで知られる。
最期は、親子の確執から息子である斎藤義龍との間で戦となり、あえなく討死にする。
毛利元就(1497〜1571年)
毛利元就は、安芸国(現在の広島県西部)の国人領主から、一代で中国地方全域を統一した、豪傑の名にふさわしい戦国武将である。
権謀術数に長けていながら、幼少時に苦労をしただけに素顔は思いやりのある人物だったといわれている。
また、父と兄の命を奪った酒は嗜まず、身分を問わず家臣を気遣う人だったと伝えられている。
有名な三本の矢の逸話は、1557年(弘治3年)に毛利元就が直筆した書状、三子教訓状に由来している。
そこには、14の心構えが記され、家族や兄弟の団結の大切さを説き、戦国下剋上の時代を生きるための教訓が示されている。
今川義元(1519年〜1560年)
今川義元は、海道一の弓取りと呼ばれた駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の大名である。
海道一の弓取りとは、東海道一の武将を意味し、軍事にとても長けていた人物だ。
幼少期には、お寺に入門し勉学に励んでいたことから学識も豊かだったといわれている。
さらには、寄親・寄子の制度を設けたり、周辺大名と交渉を行ったりするなど、政治や外交の才も有していた。
今川家は、もともと足利将軍家一門の吉良の分家で、今川義元の手腕によって大きく発展した。
今川義元が同家の当主となってからは、駿河国に加えて、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)などを治めるようになる。
その間、武田家および北条家と三国同盟を結びながら、たびたび尾張国(現在の愛知県西部)の織田家と戦っている。
そして最終的には、桶狭間の戦いにおいて、織田信長の強襲を受けて討ち死にした。
この桶狭間の戦いの印象が強く、ゲームなどで比較的ネガティブな登場をしがちなのだが、実際には有能な武将であった。
武田信玄(1521〜1573年)
武田信玄は、戦国武将の中でも最強と呼ばれた、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である。
もとの名は晴信(はるのぶ)だったが、39歳で出家した頃より、信玄と号するようになった。
幼少時から学問や武術に長けており、神童と称されていた武田信玄は、父の武田信虎からも疎まれる。
ただ、血を流すことなく、武田家の家督を相続することに成功し、父の寵愛を受けた弟の武田信繁は兄をよく支え、兄弟仲は良好だったと語り継がれている。
三方ヶ原の戦いで徳川家康が率いる徳川軍を撃破したが、織田信長の本拠地陥落を目前にして結核が悪化。
甲斐への帰途において、その生涯を閉じた。
ここで武田信玄が倒れていなければ、その後の歴史は変わっていたとも考えられている。
武田信玄の代名詞ともいえる、風林火山は、古代中国の兵法書の孫子にある軍争編の一節から引用された言葉だ。
多くの戦国大名は、この風林火山を記した軍旗を見ただけで恐れたといわれている。
上杉謙信(1530〜1578年)
上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)に生まれた戦国武将である。
川中島の戦いで交戦した武田信玄に、負けず劣らずの人気を誇る上杉謙信が、その生涯で参戦した合戦の数は約70回といわれている。
その中で敗戦と数えられるのはたったの2回であり、ここに上杉謙信が軍神と称される所以がある。
戦略戦術家として活躍したのはもちろん、琵琶をたしなみ、和歌に通じた文化人だったとも語り継がれている。
数ある上杉謙信の逸話の中でも有名な話は、塩を送るという言葉を生み出したとされる。
武田信玄が今川家と北条家により、貴重な調味料である塩の販売を禁じられた。
この塩止めが要因で、武田信玄の領国である甲斐国が塩不足に陥っていることを知った上杉謙信は敵将であった武田信玄に塩を送ったのである。
これが、義の人と呼ばれた上杉謙信の度量の広さを示す逸話として知られているというわけだ。
また、この時代には珍しく、2度に亘って天皇と将軍に拝謁しており、御剣を下賜された。
毘沙門天を深く信仰していた上杉謙信は、生涯不犯を貫いたために実子はおらず、その死後、後継者争いを生む結果に繋がっている。
大友宗麟(1530〜1587年)
キリシタン大名として知られる大友宗麟は、北九州の国々を治めた戦国大名である。
鎌倉時代から続く名族である大友家の最盛期を築いた大友宗麟だが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたともいわれている。
青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。
その一方で、書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていたといわれている。
また、日本刀に限らず数々の名品を蒐集しており、そのうちの1つである、骨喰藤四郎と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振として知られている。
豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(京都府京都市東山区)にて所蔵されている。
朝倉義景(1533〜1573年)
朝倉義景は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名である。
朝倉家の最盛期に生まれ、父の朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となる。
当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆の征伐に明け暮れていた。
その後、一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍の足利義昭の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するようになる。
反織田信長連合、いわゆる信長包囲網の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣である朝倉景鏡が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げた。
また、朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた。
自身の居城である一乗谷城(福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから、現代では北陸の小京都と称されるようになっている。
織田信長(1534~1582年)
若い頃には、数々の奇行で大うつけとも呼ばれた織田信長。
ところが、武勇に秀でており、今川義元を桶狭間の戦いで破り、以降は智略に優れた名将として急速に頭角を現す。
周囲には明智光秀や豊臣秀吉、柴田勝家などの常に優秀な家臣を従えていた。
足利義昭を追討し、室町幕府を滅亡させた後に安土城を築城。
強大な権力を手中に収め、諸国統治に乗り出して天下人となる。
そして、当時権威を誇っていた寺社へは容赦ない攻撃を加え、一向一揆の鎮圧では、領国支配に抵抗する多数の僧侶や門徒などを虐殺するなど、残忍な一面でも知られている。
一方で、南蛮貿易を奨励し、楽市楽座など領地での自由な経済政策や社会変革に務め、優れた功績を残している。
島津義弘(1535〜1619年)
島津義弘は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の大名である島津貴久の次男として生まれ、生涯で52回もの軍功を上げた猛将である。
その中で特に島津義弘の名を轟かせたのが、慶長の役での活躍ぶりだった。
その合戦のひとつである泗川の戦い(1598年)では、少ない兵で朝鮮の大軍を撃破している。
合計30,000人以上の兵を討ち取り、徳川家康もこの功績を前代未聞の大勝利と称賛している。
その他にも、300人の兵で伊東軍3,000人を破った木原崎の戦い(1572年)や、関ヶ原の戦い(1600年)での退却戦である、島津の退き口など、数多くの武功を残している。
関ヶ原の戦いでは、例え討たれると言えども、敵に向かって死すべしの言葉を残しており、勇猛果敢な人物であったことが窺える。
そして、島津義弘の愛刀は江戸時代に編著された、享保名物帳にも記載がある名刀、島津正宗である。
その所在が長い間不明となっていたのだが、2013年(平成25年)に個人所有者が京都国立博物館に寄贈し、再度日の目を見ることになる。
前田利家(1537〜1599年)
前田利家は尾張国(現在の愛知県西部)出身でありながら、加賀百万石と称される加賀藩(現在の石川県)の祖として知られる武将である。
幼少時より織田信長に仕え、若い頃には織田信長と同様にかぶき者であったと伝えられている。
そして22歳のときに12歳の才媛のまつと結婚し、愛妻家の武将の一面も持っている。
その後、自身の不始末から一時は主君である織田信長の不興を買いますが、その忠誠ぶりと数々の武勲を立てたことで信頼を回復する。
織田信長死後の清洲会議では柴田勝家側でしたが、賤ヶ岳の戦い以降、豊臣秀吉側につくと豊臣政権における五大老の1人として、北陸地方を統治した人物だ。
長宗我部元親(1539〜1599年)
長宗我部元親は、土佐国(現在の高知県)出身の戦国武将である。
22歳で長宗我部家当主となり、四国統一を果たした人物だ。
そんな有力武将も幼い頃は、色白で内気な性格であったことから、姫若子(ひめわこ)と呼ばれていた。
しかし初陣では、周囲の予想に反し勇猛果敢に奮迅し、これにより鬼若子(おにわこ)と称されるようになり、一流の武将へと成り上がっていった。
若宮八幡宮(高知県高知市)には、初陣の際の様子を表した銅像が立っており、その姿や表情には、鬼若子の名に恥じない風格が漂っている。
長宗我部元親による四国統一の原動力となったのが、一領具足の足軽たちだ。
普段は農作業を行う彼らに刀や甲冑などの武具一式を与え、すぐに出陣できるように戦力を整えていたのである。
農民達を非常に大切にしていた長宗我部元親は、大変慕われていたと伝えられている。
浅井長政(1545〜1573年)
浅井長政は、北近江(現在の滋賀県長浜市・米原市・彦根市)の浅井家3代目にして最後の当主である。
武勇智略に優れた人物と評され、織田信長と同盟を結び、その美しい妹である、お市の方を妻に迎える。
義兄の織田信長との関係は、当初共益関係にあったが、浅井家にとって恩義ある朝倉家と織田家の関係は良くなかった。
そして、浅井家と織田家の同盟締結時に交わした、朝倉家への不戦の誓いを織田信長が破ったことで敵対関係に陥り、居城としていた小谷城にて、29歳の若さで自害した。
お市の方は最後まで添い遂げ、浅井長政は自害の直前に、お市の方と3人の娘を逃している。
後にに長女である茶々(ちゃちゃ)は豊臣秀吉の側室である、淀殿(よどどの)となり、次女の初(はつ)は、京極高次の正室として迎え入れられている。
そして、三女の江(ごう)は、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠と結婚し、3代将軍の徳川家光の母となっている。
ちなみに浅井家の読み方は、あさいけではなく、あざいけである。
真田昌幸(1547〜1611年)
真田昌幸は、武田信玄に仕えた後、織田信長や上杉謙信、豊臣秀吉と次々に主君を変えながら、巧みに生き抜いた武将である。
真田幸村の父親としても知られている人物だ。
そんな真田昌幸の戦略は関ヶ原の戦い(1600年)の際にとった行動を知るとわかりやすい。
徳川家康率いる東軍と、石田三成が中心となって結成された西軍、どちらが勝利を収めるのか読めなかった。
そこで、真田昌幸の嫡男の真田信之を徳川方に、自分自身と次男の真田幸村を石田方に付き従わせることを決めたのである。
これは、真田家を存続させるために取った道で、真田昌幸が思慮深い策士であったことが窺えるというわけだ。
関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことにより、真田昌幸は真田幸村と共に、九度山(現在の和歌山県九度山町)へ流されることになる。
まとめ
天下統一までの戦国時代が最も盛り上がる前の勢力図を中心に、戦国武将を紹介した。
ここからまさに、ファンの多い戦国時代の中枢に迫っていくわけである。
そして、この戦国時代には欠かせない有名な軍師たちも多々いる。
このあたりについては、また改めて紹介していこう。
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