君子三戒(くんしのさんかい)
→ 君子が自戒すべき三つの戒めで、女色、喧嘩、物欲のこと。
自分を戒め続けることはなかなか難しい。
自分を律しようと思っても、ついどこかで気が緩んだり、楽な方へ流れてしまうのが人間の性であるともいえる。
そして、欲があることは決して悪いことではない。
その欲を達成するために全力でやり切るという力が働くことはポジティブに捉えることも可能だ。
一方で、欲に打ち勝つことを教えとする根本にある、煩悩という言葉がある。
仏教用語で、欲望や妄念と同様に使われ、煩悩に打ち勝てば人はより良く生きられるという教えだ。
そして、煩悩が108種類あって、除夜の鐘を108回鳴らすのも煩悩に由来していることは、なんとなく知っている人も多いだろう。
ということで、煩悩について掘り下げてみる。
煩悩の意味と108種類ある謎について
煩悩とは仏教上の言葉で、人を苦しめ、煩わせる心や悟りに至る道を妨げる心のことを指す。
そんな煩悩は、1人につき108種類あるいわれ、煩悩を1文字で表すとされる108画の漢字がある。
この漢字は、苦平悪意舌耳女子身鼻眼浄染で構成されているので、時間のある人はコピペして画像検索して欲しい。
見たこともない漢字というか図形に出会うことができる。
そして、人の心を苦しめる煩悩は108種類あるといわれる。
ただ、これは煩悩がたくさんあることを示した俗説にすぎず、煩悩の数え方は宗旨宗派によって違い、かならずしも108種類とは限らない。
それでも、なぜ煩悩は108つと根強くいわれるのか。
これにはいくつかの説が存在するので、紹介していこう。
六根
六根を基準に煩悩の種類を分けると108種類になるからという説がある。
六根とは、人の中にある6つの感覚(眼、耳、鼻、舌、身、意)のことをいう。
そして、六根は人に迷いや欲を与えるものとされている。
六根で生じた感覚、状態を表すのが好、悪、平で、好は快感、悪は不快感、平は快でも不快でもない状態を表す。
ここに、浄 = きれい、染 = 汚いと、前世、今世、来世の三世を意味する、過去、現在、未来を組み合わせて、煩悩を数える。
すべてをかけ合わせてみると、六根の6つ × 好、悪、平の3つ × 浄、染の2つ × 過去、現在、未来の3つ = 108となる。
つまり、六根ではこ時間と感覚で108種類の煩悩が区分できるというわけだ。
十纏と九十八結
十纏(じってん)と九十八結(くじゅうはっけつ)を足して、108つとする説がある。
人の中にある悪い心のことを十纏(じってん)という。
十纏は、無慚(むざん)、嫉(しつ)、無愧(むき)、悔(け)、眠(みん)、惛沈(こんじん)、慳(けん)、忿(ふん)、掉挙(じょうこ)、覆(ふく)からなっている。
九十八結は、人の心を仏の世界でなく、輪廻の世界に結びつける欲望や執着の数を表し、九十八随眠とも呼ばれる。
この九十八結と十纏を足すと108になることから、煩悩は108種類あるという説だ。
暦
季節や気候の変わり目、月の数といった暦を由来にカウントするという説がある。
春夏秋冬の四季をそれぞれ6つに分けて名付けたものを二十四節気(にじゅうしせっき)という。
現在も耳にすることが多い秋分や春分、夏至といった言葉も二十四節気の1つだ。
この二十四節気をさらに細かく分けたものが、七十二侯(しちじゅうにこう)だ。
24の季節をさらに3分割するのだが、例えば、立秋の期間の1つには、涼風至(すずかぜいたる)といった風流な暦名がついている。
これに12ヶ月の暦を加えると、月の数が12 + 二十四節気の24 + 七十二侯の72 = 108となるという説だ。
四苦八苦
四苦八苦に由来するという説がある。
日常会話でも使われることのある、四苦八苦は、とても苦労するという意味だが、こちらも仏教用語の1つだ。
人生における苦しみである生、老、病、死の四苦に愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)を組み合わせたものが八苦だ。
これが連なる重い重い苦しみが、四苦八苦というわけだ。
この四苦八苦の苦を9として、四苦(4 × 9 = 36)と八苦(8 × 9 = 72)に分けて足すと、合計が108になるという説だ。
大晦日の除夜の鐘を鳴らす回数
除夜は、一年の最後の日(12月31日)である、除日(じょじつ)の夜を表している。
除は、古いものから新しいものへと変わることを意味する言葉で、それまで過ごしてきた年から新しい年へと変わっていくことを示しているというわけだ。
そんな除夜に、鐘を108回鳴らすことは多くの人が知っているだろう。
なぜ、108回鳴らすのかというと、108あるといわれている煩悩を祓うためだ。
そして、除夜の鐘は107回を大晦日のうちにつき、108回目は年が明けてからつくのが正式なやり方である。
煩悩が生まれる原因
仏教上では無明という状態や三毒と呼ばれる心から発生すると考えられている。
無明とは、文字どおり、明かりが無いという意味で暗い状態のことを指し、暗い状態のため目の前のことすらも正確に把握できない状況をいう。
それによって欲やネガティブな感情に支配されてしまい、煩悩が生まれるというわけだ。
また三毒とは、貪欲(欲張った気持ち)、瞋恚(激しい怒り)、愚痴(真理を知らず愚かな状態)の3つの心のことをいう。
煩悩を捨て去る方法
煩悩を捨て去り、苦しみから解放されるためには、まず煩悩を悪と捉えないことだ。
仏教上でも欲を持つことは悪とはされていない。
ただし、欲が強くなると自分自身をコントロールできなくなったり、人を傷つけることがある。
煩悩の本質的な意味は欲があることでなく、欲を達成したいがために執着心が強くなることなのである。
執着心が強くなるということは、視野が狭くなるということにも繋がるというわけだ。
つまり、自分にはこれしかないと自分を自分で追い込んでしまうと苦しくなってしまう。
お金が人生の全てだという偏った考えになってしまうのも、お金以外の大切なことを見失っている状態だといえる。
くり返しになるが、大前提として欲というものは誰にでもあるものだ。
そのため欲を持たないように強く意識してしまうと、返ってに苦しくなってしまうこともある。
そこで、欲を抑えるのではなく、強すぎる感情や執着を抑えること、あるいは消し去るという視点が大切だというのが煩悩を捨て去る根本的な考え方である。
煩悩との向き合い方
煩悩にまみれているという表現があるように、煩悩という言葉を使うとネガティブになりがちだ。
けれども、子煩悩という言葉があるように、子どもを可愛がっている親を指すような表現は決して悪い意味ではないだろう。
これも上述したが、煩悩は良くないという意味で捉えがちとはいえ、人間の欲というものは人を成長させたり、人生を変えたりするために必要なことでもある。
そのため欲そのものを否定してしまうと、自分の素直な気持ちを我慢してしまうことになり、苦しみを発生させる原因になりかねない。
つまり、大切なのはバランスを保ちながら煩悩と上手く付き合っていくことだ。
まとめ
煩悩に苦しめられて、振り回されないためにも常に自分と対話して、欲に飲まれないように心がける必要がある。
特に上手くいっているときには、調子に乗ってしまうというタイプの人は周りの人の意見やアドバイスを冷静になって聞くということを意識した方がいい。
欲に飲まれていると、自分を客観視できず、自分が正しいと思ってしまう傾向があるからだ。
そうなると、自分の周りで問題が発生していることすら気づけなくなる、つまり俯瞰で見るということができなくなっているわけだ。
客観的に自分や周りを見るためにも煩悩との上手な付き合い方を心がけていこう。
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