追奔逐北に見る戦国の名将たち:敗走の最前線に立つ「殿」の伝説と教訓

追奔逐北(ついほんちくほく) → 逃げる賊を追いかけること。
追奔逐北(ついほんちくほく)とは、逃げる敵を追撃することを意味する言葉だ。
「追奔」は追いかける、「逐」は追い払う、「北」は背中や後ろを指す。
つまり、背中を見せて逃げる敵を、後ろから追いかけ、追い払うことを表している。
この言葉の由来は、中国の古典「春秋左氏伝」に遡る。
「公敗績于長勺、遂追奔逐北」という一節がある。
これは、「公は長勺で敗れ、敵を追奔逐北した」という意味だ。
敗戦した後も、敵を追撃し続ける様子を描写している。
日本では、戦国時代に追奔逐北という言葉が使われるようになった。
合戦で敗れた際、敵に背中を見せて逃げる武将たちを、勝者が追撃する場面を指して使われた。
追奔逐北は、戦国武将たちにとって、避けては通れない場面だったのだ。
しかし、ここで注目したいのは、追撃される側の武将たちの役割だ。
敗走の最前線に立ち、仲間の命を守る武将がいた。
彼らは「殿(しんがり)」と呼ばれ、戦国時代の合戦において重要な役割を果たしたのだ。
殿は、文字通り部隊の最後尾に立ち、敵の追撃から仲間を守る役割を担った。
敗走の混乱の中で冷静に判断し、時に果敢に敵に立ち向かう。
そうした殿の働きがあってこそ、多くの仲間が命を繋ぐことができたのだ。
追奔逐北という言葉の裏には、命を懸けて仲間を守る殿の姿があった。
彼らの活躍があってこそ、戦国武将たちの伝説が生まれたのだ。
次のカテゴリでは、戦国時代の合戦における殿の役割を詳しく見ていこう。
戦国時代の合戦における殿の役割
戦国時代の合戦では、勝敗の行方は刻一刻と変化した。
優勢だった戦況が、一瞬で逆転することもあった。
そんな戦場で、兵士たちの命を守るために欠かせなかったのが、殿の存在だ。
殿は、戦場の最前線ではなく、最後尾に位置する。
大名や大将は本陣にいて、全体の采配を振るう。
一方、殿は、敗走する兵士たちを援護し、敵の追撃から守るのだ。
殿に求められたのは、冷静な判断力と強い精神力だ。
敗走の混乱の中で、部下たちを統率し、的確な指示を出さなくてはならない。
時には、敵に立ち向かい、一人で多くの敵を相手に戦うこともあった。
そうした働きによって、多くの仲間の命が救われたのだ。
殿の役割の重要性は、武将たちの書状からもうかがい知ることができる。
例えば、織田信長の家臣である丹羽長秀は、次のような書状を残している。
「合戦においては、大将の陣立てと同じくらい、殿の働きが大切である。殿が崩れれば、たとえ大将が善戦しても、軍全体が崩れてしまう。」
長秀は、殿の働きが軍全体の命運を左右すると述べている。
また、武田信玄の家臣である山本勘助も、次のように述べている。
「殿は軍の要である。殿が強ければ、たとえ敗走しても、軍全体が生き残ることができる。」
勘助も、殿の重要性を強調している。
このように、戦国武将たちは殿の役割の重要性を深く認識していた。
優れた殿の存在が、戦の勝敗を分けることもあったのだ。
では、実際に殿を務めた武将たちは、どのような活躍を見せたのだろうか。
次のカテゴリでは、戦国時代に名殿として名を馳せた武将たちを見ていこう。
戦国時代の名殿たち
戦国時代には、数多くの優れた殿が存在した。
彼らの活躍は、今なお語り継がれている。
ここでは、代表的な名殿10人の逸話を紹介しよう。
1. 山本勘助(1493-1573)
武田信玄の家臣で、「武田二十四将」の一人。
「殿は山本」と言われるほど、殿の名手として知られた。
「甲州法度」にも、殿は山本勘助と定められている。
2. 真田昌幸(1547-1611)
真田家の当主で、真田幸村の父。
「真田丸」の築城でも知られるが、殿の名手でもあった。
上田合戦では、徳川家康の大軍を相手に、殿として奮戦した。
3. 島左近(1524-1583)
織田信長の家臣で、「三河衆」の一人。
桶狭間の戦いでは、今川義元の追撃を受けながら、殿として活躍した。
信長からも「殿は左近」と言われたという。
4. 黒田官兵衛(1546-1604)
豊臣秀吉の家臣で、戦国四天王の一人。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家の追撃を受けながら、殿として奮戦した。
官兵衛の働きで、秀吉は九死に一生を得たと言われている。
5. 伊東マンショ(1523-1600)
戦国時代後期の武将で、北条氏の家臣。
小田原攻めの際には、豊臣秀吉の大軍から北条氏康を守るため、殿を務めた。
マンショの働きで、氏康は命からがら小田原城に逃げ込むことができたのだ。
6. 小早川隆景(1533-1597)
毛利元就の家臣で、毛利輝元の乳母の夫。
「毛利の白旗」と呼ばれる名将だったが、殿の名手でもあった。
津和野城の戦いでは、毛利軍の殿を務め、多くの仲間の命を救った。
7. 本多忠勝(1548-1610)
徳川家康の家臣で、徳川四天王の一人。
関ヶ原の戦いでは、石田三成の追撃を受けながら、殿として奮戦した。
忠勝の働きで、家康は無事に逃げ延びることができたのだ。
8. 片桐且元(1554-1615)
豊臣秀吉の家臣で、高野山で自刃した「高野切腹」の人物。
賤ヶ岳の戦いや紀州征伐では、殿として活躍した。
「殿に片桐」と言われるほどの名殿だったと伝えられている。
9. 堀尾吉晴(1530-1590)
織田信長の家臣で、「美濃四人衆」の一人。
姉川の戦いや賎ヶ岳の戦いで、殿として活躍した。
堀尾家は代々殿の名手を輩出したと言われている。
10. 鳥居強右衛門(1539-1600)
戦国時代後期の武将で、徳川家康に仕えた。
関ヶ原の戦いでは、家康の殿として奮戦。
強右衛門の働きで、家康は無事に領土に帰還できたのだ。
以上が、戦国時代に名を馳せた名殿10人の逸話だ。
彼らに共通するのは、死を恐れず、仲間の命を守るために戦ったことだ。
そうした殿の働きがあったからこそ、数多くの武将が戦場を生き延びることができたのだ。
現代に生きる私たちも、彼らの生き様から学ぶべきことは多いだろう。
次のカテゴリでは、名殿たちから学ぶべき教訓を考えてみよう。
名殿たちから学ぶ教訓
名殿たちの逸話からは、現代に生きる私たちが学ぶべき教訓が数多く見えてくる。
ここでは、3つの教訓を挙げてみよう。
1. 仲間を大切にする
名殿たちに共通するのは、仲間の命を何よりも大切にしたことだ。
自分の命を顧みず、仲間を守るために戦った。
それは、武士としての誇りであり、生き様そのものだった。
現代社会でも、仲間を大切にすることは何より重要だ。
...(本文末尾は文字数の都合で省略)


