英雄ナポレオンはなぜ英雄という絶対的な地位を築けたのか?

雲蒸竜変(うんじょうりょうへん) → 英雄や豪傑が時期を得て、存分な活躍をすること。
いつの時代にも英雄や豪傑が現れ、一時代を築くと共に後世に語り継がれることになる。
英雄と聞いて思い浮かべる人物は様々だろうが、必ず名前が挙がるであろうナポレオン。
フランス革命時代の皇帝であることは知っているけれども、なぜ未だに英雄としての地位を確保しているのか、少々調べてみることにした。
英雄ナポレオン生誕について
ナポレオンが生まれたのは1768年8月15日で、場所はコルシカ島。
地中海にある島で、コルシカ島とサルデーニャ島が有名である。
現在は北にあるコルシカ島はフランス領、南のサルデーニャ島はイタリア領だが、もともとは自由都市ジェノヴァが支配していた。
そんな中、フランス王国が勢いを増しており、1768年にジェノヴァからコルシカ島を奪い占領した。
その3ヶ月後の8月15日に、コルシカ島の有力貴族ボナパルト家に生まれたのが、ナポレオンなのである。
ボナパルト家はもともとはイタリアの出身といわれており、由来はブオナパルテというイタリア語の名前だとされている。
ナポレオンが誕生した8月15日というのは、カトリックでは聖母マリアの被昇天の祝日。
ということで、本来ナポレオンはナポレオーネ・ブオナパルテとして生まれ育っていくはずなのに、その直前にフランス人になったというわけだ。
これもなにかの運命だったのかもしれない。
ナポレオンの幼少期
コルシカでは貴族とはいってもボナパルト家は、本国フランスでは取るに足らない存在だった。
当時、のし上がっていくには軍人としての地位を高めていくしかなく、1779年にナポレオンは9歳のときにブリエンヌ兵学校に入学する。
とはいえ、コルシカ島の出身ということもあって、孤独な学校生活だったといわれている。
その後、1784年10月にパリ士官学校へ進むが、父親の急死に伴い、1年半という短い期間で卒業して砲兵将校となる。
それから、ラ・フェール砲兵連隊に着任するのだが、駐屯地では特段やることもなく、当時のナポレオンは読書に明け暮れたとされる。
フランスの啓蒙思想家として有名なルソーの思想に強く共感し、コルシカ島の独立を支持したレナールには熱狂している。
その証拠にナポレオン自らも手記の中で、フランスのコルシカ島占領を批判している。
フランス革命による変化
1789年7月14日にフランス革命が起こる。
フランス革命は、フランスで領地を所有する貴族と高級聖職者が権力を独占していた構図が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化のことである。
当時は牢獄だったバスティーユが市民たちによって襲撃され、フランス革命が始まる。
8月になると軍の将校たちは、新体制に忠誠を宣誓する。
ナポレオンはフランス革命を支持していた立場だったが、故郷を気にするあまり休暇願を提出して、1789年9月から1791年1月まではコルシカ島に滞在している。
アンシャン・レジームと呼ばれる革命前の旧体制時代の支配層はフランス領のままでいることを主張したが、住民は革命派と王党派に別れて対立。
一方、本土では1789年11月に憲法制定国民議会がコルシカ島をコルシカ県と決定した。
1791年9月にフランスからコルシカ島に再び戻っていたナポレオン。
ただ、そのときにはコルシカ島内では、反フランス派が多くなっており、フランスへの対立が激しくなっていた。
翌年の1792年には、ナポレオンが副隊長を務める国民衛兵と群衆とのあいだで衝突が起こるまでに発展した。
その責任を取って、ナポレオンはフランスに帰還することになる。
フランス陸軍に復帰したナポレオンだったが、国王ルイ16世一家のいたチュイルリー宮殿をパリの民衆が襲撃する事件が起こる。
これを、8月10日事件と呼び、国王ルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえタンプル塔に幽閉した。
この事件により、フランスでは王権が停止され、9月21日に王権を廃して共和政府樹立の宣言がされることになる。
大量殺戮事件を起こしたパリの民衆に対して、ナポレオンは怒りの感情を隠しきれないまま、10月にはまたコルシカ島に帰還。
翌年の1793年2月、コルシカ島の南にあるサルデーニャ島への遠征軍の砲兵将校として、ナポレオンは初めての実戦を経験することになる。
ナポレオンはサルデーニャ島周辺の小さな島の攻略をしていたが、そのときの水兵たちが反乱を起こし、ナポレオンが加わっていた遠征軍は撤退。
戦いに負けたわけではないのに退却しなくてはならないという苦い経験をすることになる。
そして、実はこの遠征軍はコルシカ島の独立を画策するパオリに率いられていたということを、ナポレオンの弟であるリュシアンが告発する。
1793年4月にパオリはパリに呼び戻されたが、独立を支持する島民たちはボナパルト家を襲撃。
この影響で、ボナパルト一家はコルシカ島を脱出してトゥーロンへ逃亡。
1794年には、イギリスと同盟したパオリによってイギリス・コルシカ連合王国が誕生したが、1796年にコルシカ島はまたフランスに占領されてしまう。
ナポレオンは故郷を失い、1799年のエジプト遠征のときに立ち寄ったのを最後に二度とコルシカ島には足を踏み入れなかった。
コルシカ人としてではなくフランス人になる以外に、ナポレオンの選択肢はなかったのである。
フランス革命の転機
フランス革命は、1789年に起こったと先述したが、一度きりの事件ではない。
1792年に王権が廃されてフランス共和国が誕生したが、後ににジロンド派と呼ばれるブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握っていた。
フランス革命は、さらに進行して、1793年5月にまた革命が起こり、ジャコバン派が権力を掌握。
ルイ16世は1973年1月にすでに処刑されていたが、王妃マリー・アントワネットはロベスピエールに率いられたこのジャコバン派によって10月に処刑。
9月には、ナポレオンがトゥローンで砲兵隊司令官に任命され、イギリス軍をトゥローンから撤退させている。
その戦功により、ナポレオンは24歳で准将に昇格する。
軍人として順調な出世コースに乗ったかと思うと、ジャコバン派による恐怖政治が1794年7月27日のテルミドールのクーデターで終了。
ナポレオンもその一味とみなされてしまうことになる。
ジャコバン派を抹殺したテルミドール派は、今後のフランスの政治をどうするかでしばらくは迷走し、その一方で王党派の反乱が起こる。
これをヴァンデミエールの反乱と呼んでいるが、この反乱を鎮圧するのに功績のあったのがナポレオンだった。
このときの軍の最高司令官がバラスで、テルミドール派による総裁政府が成立したときの5人の総裁の1人がこのバラス。
ナポレオンより6歳年上のジョゼフィーヌはバラスの愛人の1人だったが、若いナポレオンはその魅力のとりこになる。
1796年3月2日にバラスはナポレオンをイタリア方面最高司令官に任命。
その数日後にバラスが立ち会ってこの2人は結婚。
結婚してすぐにナポレオンは第一次イタリア遠征をし、イギリスと同盟していたオーストリアの北イタリアの領土を攻撃。
ニースからミラノを目指し、ロンバルディア平原のロディ橋で数倍の軍勢のオーストリア軍と戦闘。
ナポレオンはこれに勝利して、1976年5月15日にミラノを占領。
その後、ボローニャ、フェラーラなどを占領したあと、1797年1月のリヴォリの戦いで電撃的勝利をし、2月には北イタリアを占領。
これはパリでもニュースになり、英雄ナポレオンが誕生するきっかけとなる。
1797年6月29日にロンバルディア地方はチザルピーナ共和国となり、10月17日のオーストリアとのカンポ・フェルミオ条約で、オーストリアはヴェネチアを以外の北イタリアとネーデルラントを手放した。
クーデターの主役になるナポレオン
フランスの総裁政府は勢力圏を拡大し、フランス共和国の政治制度にならって共和国を建設。
その代表的な例が1795年のバタヴィア共和国建設で、これは現在のオランダにあたる。
ナポレオンがつくったチザルピーナ共和国もその1つではあるが、ナポレオンは総裁政府と相談せずに独断でしたために、総裁政府の不評を買ってしまう。
ただ、北イタリアからの戦利品などのおかげで、総裁政府におけるナポレオンの地位は不動のものとなる。
1798年にナポレオンはイギリス侵攻作戦の責任者になったが、イギリス本土攻撃は無理だと判断。
外務大臣タレーランの提案したエジプト遠征に切り替えた。
エジプトにはピラミッドやスフィンクスの像などがあるが、古代オリエントの文明に対してフランスは一種の憧れを抱いていたので、この遠征に学者もたくさんついて行った。
1798年7月1日にアレクサンドリアを攻略。
7月21日のギザの戦いで勝利し、カイロを占領するところまでは順調だったが、なにしろエジプトの猛暑に勝てず、ネルソン提督の率いるイギリス艦隊によってフランス艦隊は壊滅。
9月にはオスマン帝国がフランスに宣戦。
遠征軍を残してナポレオンはパリに逃げ帰ったのですが、パリでは勝利のニュースだけが伝わっていて、ナポレオンはエジプト遠征の英雄として迎えられた。
エジプト遠征は結局のところ成功しなかったのだが、ナポレオンはここでもまた英雄のオーラを獲得することに成功した。
しかし、国際関係はというと、イギリスとロシアとオスマン帝国が対仏大同盟を締結。
フランスは国際的に孤立する危機に直面する。
総裁政府はジャコバン派と王党派を押さえつける力をなくしたので、軍隊の力を借りてクーデターを計画。
総裁のひとりだったシェイエスはタレーランや警察大臣フーシェらとともに、エジプト遠征の英雄ナポレオンを担ぎ上げた。
1799年11月9日、革命暦ではブリュメール十八日にクーデターが行われ、議会がパリからサン・クルーに移されて、ナポレオンがその議会を警護する部隊の司令官になった。
この議会でナポレオンは議員たちを説得しようとしたが、議員たちの質問攻めにはさすがの英雄もその力を発揮できませんでした。
議会は元老会と五百人会の両院で構成されており、五百人会の議長はナポレオンの弟リュシアン。
そのおかげで、ナポレオンは五百人会に部隊を引き入れ、このクーデターの主役になった。
クーデターの主役から皇帝に
クーデターで総裁政府は崩壊。
クーデターの首謀者であったシェイエスはナポレオンの影に隠れ、ナポレオンがフランスの救世主になる。
1799年12月15日、共和国第八年憲法が公布され、革命は終わったという宣言とともに、ナポレオンが第一統領に指名。
この憲法によってフランスの今後の政治体制が決められるとともに、21歳以上の男子の普通選挙も規程される。
ナポレオンを含めて3人の統領の合議によって政策などが決定されることになっていたが、実質的には第一統領に権力が酋長していてあり、あとの2人の統領は相談役にすぎない。
立法府としては、元老院と護民院と立法院があったが、第一統領の権力の大きさに比べたらその権限は弱いものだった。
むしろ、法律や軍事などの専門家によって構成されている国務院の方が、第一統領を補佐して法案などを作成していたから、政府機関としては上位だった。
日本で男子普通選挙が導入されたのは1925年、ドイツでも1848年の三月革命のときの国民議会で決定されたわけで、フランスの先進性が表れている。
後にこの制度を利用して、1804年にナポレオンはフランス国民によって選ばれた皇帝になる。
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section>フランス革命は、フランス国内で大きな変化を引き起こしたばかりではなく、対外的にも戦争状態を生じさせた。
ナポレオン自身もフランスの軍人として、イタリアやエジプトに遠征した。
フランス共和国もこの戦争で領土を拡大したが、この時点では国際的に孤立し、拡大した領土も失っていった。
ナポレオンは第一統領として、フランスの置かれていたこの危機的状況を克服する必要があった。
国内問題としては、宗教問題で反乱をしていたヴァンデ地方に礼拝の自由を認め1800年に講和。
また革命の騒動により国外に亡命していた人たちの帰国を促す。
国内の不満を解消するために、1800年4月にナポレオンはアルプスの山を越えて第二次イタリア遠征をした。
ルーブル美術館にある白馬にまたがった有名なナポレオンの絵はこれを描いたものだが、これももちろんナポレオン一流の脚色。
オーストリアとのマレンゴの戦いでは苦戦し、ドゼー将軍の活躍によりなんとか勝利したものの、ドゼー将軍は戦死。
...(本文末尾は文字数の都合で省略)


