盈満之咎(えいまんのとが)
→ 物事が満ち足りているときは、かえって災いが生じやすいということ。
本日、2021年9月2日に40歳を迎えた。
せっかくなので、今日は自分のことだけを書く日にしようと思う。
いつもの四字熟語は、物事が満ち足りているときは、かえって災いが生じやすいというこということらしいが、物事が満ち足りているときは40年間なかったのではないだろうか。
もちろん、満ち足りていると感じる瞬間はあっても、またすぐ次へ向けて動く、そんな日々を社会人になってからはしているように思う。
記憶のある時代
たまに3歳前後の幼い記憶があるという人と出会うが、私の場合にはそれが本当にない。
仮にあったとしてもいつの記憶かが不明で、確かな記憶としてあるのは、小学校3年生くらいからではないだろうか。
そして、小学校時代は私の両親は教育者という立場だったこともあり、あまり良い思い出もない。
同じ学区に母親が教師としていた時期があり、キツく当たってくる教師もいれば、真逆の依怙贔屓(えこひいき)をあからさまにしてくる教師もいた。
そんな環境にあったため、先生という立場の人に対して全くリスペクトがない人間形成が自然とされたように思う。
別に今となってはどうでもいいのだが、恩師と呼べる人がいるという人が羨ましくもあったりする。
その後、中学校、高校と進んでいくのだが、まあなにも考えていない、ただただその日を過ごしているという、ごくごく普通の学生時代だった。
転機となった時期
そんな少年から青年に迎えていく過程で、転機を迎えたのは、高校3年生のときだろう。
相変わらず、当時も特にやりたいことなどなく、学校ダルいなくらいの学生で、楽な方に流れていくダメな方のカテゴリだった。
とはいえ、高校卒業となると選択肢を迫られる。
大学へ行く、専門学校へ行く、働くというのが一般的なものだろうが、私の場合は大学へ行くという選択をした。
ただ、そこに意思はなく、仲の良かった友人たちのほとんどが東京を目指していたこともあり、私も自然と東京に行くことを決めたという経緯だ。
東京へ行くといってもなにもないのに行くわけにはいかないから、とりあえず4年間は繋げる大学を選択したという、そんな考え方だ。
ところが、思っていたよりも自分の学力がなかったこともあり、浪人することになる。
翌年になんとか大学合格を勝ち取り、憧れが一層強くなっていた東京へ向かった。
東京に行って起こった変化
結論からいうと、強い意思はなく、ただ憧れだったというだけで決めた上京だが、行って良かったと心から言い切れる。
というのも、多くの経験ができたし、未だにできているのは、この選択をしたところがスタートだったからだ。
そもそも、地元の広島を出たかった理由には、誰か1人を介するれば知り合いと繋がるという狭さに辟易していた。
なんて狭い場所なんだという閉塞感に、なにもないくせに抗おうとしているアオハル。
手に入れた東京生活では、多くの人と出会うことができた。
そもそも東京にずっと住んでいる人は少なく、地方から出てきた人がほとんどという環境に刺激がたくさんあった。
象徴的な出来事がある。
大学時代は半分は休みだ。
その制度もどうかと思うが、長い休みがあってもすることがないので、その都度、帰省するのがルーティンとなっていた。
それこそ、最初の夏休みや冬休みには、広島の友人たちと遊ぶのだが、春休みに変化が起こる。
夏休みと冬休みとは全く違う感覚が芽生えたのだ。
それは、ずっと地元にいる人には変化がないということ。
相変わらず、高校時代のときの想い出話をしていたり、行く場所も一緒、やっていることも一緒、その環境に耐えられなくなった。
そんな感覚が翌年の大学2年生の夏休みからは、帰省しても地元の友人たちと遊ぶということがなくなっていった。
こういうことを書くと、ずっと地元にいる人たちを下に見ているとか、東京に行ったことが偉いのかという一部の輩が出てくる。
私がいいたいことは、そんなレベルの低いことではなく、価値観が変わっていくということで、違和感を覚えたときに無理に自分がいたくもない環境にいる必要がないということだ。
ずっと地元にいても、しっかり仕事をして充実した人生を送っている人も当然たくさんいる。
そういう生き方が、私にはできなかったというだけで、そこに上も下もない。
社会に出る前の大きな変化
地元広島の友人たちとの付き合いが圧倒的に減ったからといって、東京でやりたいことを見つけていたわけではない。
その後もただただ流れるがままのズボラな生活が続いていたが、その一方で最低限の戦略はあった。
それは、アルバイトを大学内の定食屋で4年間していたということだ。
その定食屋ではお弁当を作っており、大学内で販売をしていたので、朝から昼過ぎまでがアルバイトの時間になっていた。
このアルバイトの良かったのが、大学の授業が1時限目と4時限目となっていた場合、その間でできること、午後からしか授業がなくても朝から大学に行くことがあった。
無駄に時間が空くとサボってしまうと考えて、とにかく大学にいれば授業に行くし、夜の時間にアルバイトをしなくていいというのも良かった。
そんな大学生活だったため、単位もしっかり取れていたし、授業をサボるようなことはほとんどなかった。
ところが、大学3年生になる頃に大きな変化があった。
それが就職活動という一大イベントだ。
社会に出る前と出てからの最大の変化
これも結論からいうと、私は就職活動というものをしたことがない。
その理由は、相変わらず将来について特になにも考えていなかった私は、大学のキャンパス内に就活のリーフレットを配っている人たちを完全スルーしていた。
そんな私の姿を見た同級生たちが心配して、一度だけ大学内の講堂に行ったことがある。
そこにはいわゆる大企業の採用担当者たちがいて、自社の説明をしていた。
その後の質問タイムのときに衝撃が走った。
学生側が挙手をして、学年と名前を叫ぶように発したかと思えば、意図がよくわからない質問をしている姿が気持ち悪くて仕方ないと感じた。
それらかの大学生のほとんどは、エントリーシートがどうとか、どこの企業の内定をもらったとかそんな話題になっていったが、その環境に違和感しかなかった。
で、自分はどうするの?である。
就職活動はしないと決めても、私も大学を卒業した後になにをするのか、きちんと考えないといけないタイミングであることはわかっていた。
そんな私がとった行動は、当時は特許のことに興味があったこともあり、弁理士資格を取得するというものだ。
単位をしっかり取っていたため、大学の授業はほとんどなかったこともあり、専門学校へ通いながら勉強をした。
結局、大学卒業を挟みながら、2回ほど受験したのだが、合格することはなかった。
そんなとき、アルバイトをさせてもらっていたベンチャー企業の社長に言われたことが人生の方向性を決めた。
一生懸命に資格を取ることを目的として頑張っていたから言わなかったけど、仮に資格を取ったとしたら、ずっとその仕事をやっていかないといけないんだよ?
弁理士資格を取ることにしか意識が向いていなかった私には次の言葉がガツンと刺さった。
僕たち経営者は、自分で資格を取るんじゃなくて、資格を持っている優秀な人を仲間として受け入れるんだよ。
この言葉をきっかけに、私は弁理士資格を取ることをやめて、株式会社TKP(ティーケーピー)へ入るところが、社会人としてのスタートとなる。
社会人になってから40歳を迎えるまで
40歳を迎えて思うのが、私はつくづく運のいい側の人間だということである。
なんとか今の環境を構築できているのも、まさにそこに尽きると思う。
10代のときは全くなにも考えておらず、20代前半まではその状況が続いた。
そんな自分が社会人になって、20代はとにかくガムシャラに駆け抜けた。
30代前半に起業。
そこからあっという間に40歳を迎え、今は株式会社stakのCEOとなっている。
正直、40歳を迎えたことに嬉しさは全くない。
40歳という響きは、とにかく重い。
でも、そこを抗うことはできないことはわかっているし、受け入れるしかない。
40歳になるのが嫌で嫌で仕方なかったけれども、40歳になった今日、最高の40代にしていこうと決めた。
ということで、40歳の誕生日おめでとうを自分に送ろう。
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